ブログ事始

コルティナ・ダンペッツォの朝

若者もすなるブログというものを、年寄りもしてみむとてするなり。

(2009年6月24日 書込み)
5日後(6月29日)から32日間、13回目のヨーロッパ旅行に出かけます。
行き先は北欧四ヶ国(ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、デンマークの順)、ドイツ北部およびチェコです。
今年も小型パソコンを持って行き、現地から生の観想を発信します。

(2008年5月27日 書込み)
明日(5月28日)から32日間、12回目のヨーロッパ旅行に出かけます。
アメリカ旅行を合わせれば、15回目の海外旅行になります。

旅行中の出来事や生々しい感想をブログに綴っていきたいと思います。
また、折に触れて、過去の旅行の思い出も付け加えていく積りです。

ヨーロッパに対する私の想い が集大成できれば大成功なのですが....

コルティナ・ダンペッツォの夜明け
(イタリア北東部、ドロミテ山塊東部の中心都市)

2009年07月04日 プロローグ トラックバック:0 コメント:6

オスロの5日目(1)

何をやってンダ。いい加減にしろ!!!!
エッ?何故怒っているのかって??

ノルウェーの国鉄ですヨ。 こ く て つ。

一昨日の夜は、2時間遅れ。
ホテルへ入ったのが夜中の1時少し前。
だから、正確には、昨日の夜ということになる。

マア、正確さなんてどうでもいい。
「昨日の夜}、エエ面倒くさい、正確には「今朝」になるが、ナント3時間余りの遅れ。
ホテルには夜中の2時到着。

はからずも、2日とも「午前様」。

今日は午前8時発の飛行機で「ノールカップ(Nordkapp:北岬の意)」へ行くための街「ホニングスヴォーグ」へ飛ぶ。

今、ちょうど4時。
6時にホテルをチェックアウトするので、結局寝る時間はゼロ!!

列車は遅れる、物価は高い。フィヨルドの景色も中途半端。アルプスの足元に及びもつかない。
北欧(まだノルウェーだけだげど)は、今回一回でもうたくさん。
というのが現在の感想。

きれいな写真は一杯あるけど、「怒りの文」に使っては、写真が可哀そう。
だから、今回は写真貼り付けは無し。

2009年07月04日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:0

オスロの4日目

快調、快調!!
お腹の調子がおかしいことなど、とっくの昔に忘れてしまった。

ともかく、忙しい。
行きたい所もやりたいことも多すぎて、時間が足りない。
睡眠時間を極く短かくしているけど、それでもブログを書いてる時間がない。

ブログの書込みは殆どできないけれど、とりあえず、元気よくやっていることを報告しておこう。

つまらない文書だけど、これだけ書くのが精一杯。
もう出かけなくっちゃ。

2009年07月03日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:1

オスロの2日目(2)

オスロ港

今日は先ず中央駅まで行き、ユーレイル・パスが使える状態にした(これを、「ヴァリデイトする」という)。

昨夜、中央駅に降り立ったときに磯の香りがしていたが、それは当然だった。200m暗い南に行けば、もうそこは港なのだ。

付近をブラブラ歩いていると、観光バスを見かけた。中央駅に戻れば乗れるだろうと思っていた。しかし、観光バスの溜まり場らしきものは見付からない。タクシーの運転手に聞いたら、市庁舎の付近で乗れると教えてくれた。徒歩10分とのことで、当然歩く。
カール・ヨハネス通りという歩行者専用の目抜き通りを通って、市庁舎まで行く。

途中で、大道音楽家がバイオリンで「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」を演奏していた。かなり、迫力があって、聞き惚れていた。バイオリン・ケースにコインを放り込んでやったが、後で考えると、通貨(ノルウェー・クローネ)の換算ミスで随分多くやってしまっていた。

観光バスで街を一周。地理が飲み込めたので、後は市内バスで行きたい所へ行ける。

海を見たかったので、観光船に乗る。2時間のクルージング。
この観光船では、若い女性が英語とノールウェー語でガイドしてくれた。
その英語が非常によく分かる英語だった。
そこで、降りる際に、「英語がうまいね。全部聞き取れたよ。」と褒めておいた。
実はこの時、チップを渡そうかと思った。しかし、それがいいことなのか、失礼に当たるのか判断できず、結局は渡さずじまいだった。
こんな時、どうすればいいんでしょうか。知っている人、教えて!!

今日は、ともかく暑い。少し歩いても汗ビショ。水をガバガバ飲んで、お腹の調子が狂ってしまった。ヤレヤレ。
しかし、こんなことではへこたれないよ。

写真は、オスロの港風景。

2009年07月01日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:0

オスロの2日目 (1)

昨夜10時過ぎにホテルへ到着。

今回の旅行は上々の滑り出し。

名古屋-パリ間の飛行機では、隣の席は30歳代と思われるフランス人男性。
早速、フランス語会話の教材(?)として使わせてもらう。

キャビン・アテンダントの2人と仲良くなった。共にドイツ語で喋っていたが、その内の一人はチェコの出身者。

シャルル・ドゴール空港で次の便を待っていると、ベンチの隣に座っていた若い女性がコンピュータを使い出した。そこでインターネットが使えるかどうかを聞いたのが端緒で、さらに話をしていたら、彼女はチェコ人だった。

さらに、オスロ行きの搭乗口へ行く途中で、先ほどのキャビン・アテンダントとバッタリ会った。彼女らはこれからフランクフルトの寮に帰るところだと言う。ベンチに座って、約30間の長話。彼女らの搭乗時間になったので、サヨナラした。

オスロ到着は予定通りの午後9時10分。曇っていたこともあって、予想よりは空が暗かった。でも、太陽は地平線より大分上。今の日本なら、5時半位の感じかな?

オスロ中央駅からホテルまで迷わずに歩き、5分で到着。インターネットは有料だった。

それにしても、ヨーロッパは今、猛烈に暑くて湿気も多い。パリは28度とか。オスロは、数値こそ知らないけれど、体感的にはパリとほぼ同じ。冬装束を持ってきたけど、役に立つのかな?

2009年06月30日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:0

2009年の旅・発進

現在、2009年6月29日午前8時過ぎ。中部国際空港にいる。
既に飛行機のチェック・インを済ませ、ラウンジでくつろぎながら、この文を書いている。

本日は、先ずパリのシャルル・ドゴール空港に着き、3時間20分待ちでオスロ空港(ノルウェー)まで飛ぶ。
オスロ到着 午後9時10分。夏至直後だから、ほとんど昼間と同じ明るさだと想像している。

オスロは北緯60度。日本付近だとカムチャッカ半島の付根辺り。これを知って、北欧はやはり「北」にあるんだという、当り前のことを実感した次第。

スーツケースには夏着ばかりを入れていたが、昨晩遅く、「合」や「冬」の衣類を補充した。最北は北緯71度位(立派な北極圏ダヨ)まで行くんだからね。

ともかく、風邪をひかないよう気をつけよう。
では、行ってきま〜す。

2009年06月29日 プロローグ トラックバック:0 コメント:1

旅の思い出 - ウィーン(10) -

中央墓地

映画には3回登場する。

冒頭では「ハリーの埋葬と称する」葬儀が行われていた。
ここで、ホリーはアンナを見かける。

中程では、ハリーの墓が掘り起こされた。
その結果、埋葬されていたのはハリーではなく、ハリーの手下の遺体であることが判明する。

ラスト・シーン。
約1分半、音楽の演奏だけで、せりふは一切無しのロングカット。余情たっぷりに描かれている。

この墓地はべらぼうに広い。面積240haというから、東京ドーム約50個分に相当する。したがって、入場する門の数もハンパではない。30個近くあったと覚えている。

この墓地へ行くには、リング(環状線の路面電車)のシュヴァルツベルゲンプラッツからほぼ南に向かう別の路面電車に乗る。
門の数が多いので、降りる停留所を間違えると大変だ。次の停留所を示す掲示板をシッカリ眺めて、目指す『墓地第二門』で降りる。

門をくぐって墓地内に入る。「面積の広さ」、「植栽の多さ」と「整備の良さ」が目に飛び込んでくる。これで、もし墓石が無ければ、広大な公園という感じ。日本の古式な墓の陰湿さは全くない。

さて、映画のラストシーンの場所は?と眼を凝らしながら歩き回る。
似たような風景が多いので、どこが本当にラストシーンの場所か定かではない。でも、これで満足。映画の雰囲気が味わえたのだから。

この映画のラストシーンを見たい人は
http://www.youtube.com/watch?v=Es3gBldyR4k
にアクセスして下さい。

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2009年06月25日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(9) -

地下水道

映画に2回登場。

一回目。ホリーがウィーンで初めてハリーを見かけた時、突然その姿が消える。地下「下」水道の出入り口に設置された「八角形の広告塔」の中へ逃げ込んだからだ。ウィーンへ来て間もないホリーには、広告塔にそんなカラクリがあるとは露知らなかった。

二回目。ハリーがホリーにおびき出されて、警察軍に追われる。その時逃げ込んだのが、この地下「下」水道。迷路のようなトンネルの中を、勝手知ったハリーは逃げ回る。しかし、警察軍はすべての出入り口を警護している。逃げ切れなかったハリーは遂にここで命を落とす。迫力のクライマックス・シーンが撮影された場所である。


この地下「下」水道には、当然、勝手には入れない。入りたければ、「第三の男ツアー」への参加が必須となる。といっても、英語ガイドつきのツアーは隔日にしかやっていない。
私の場合は、予約の翌日に実現した。

ブルク公園の一画にある入口から階段を降りて地下に潜る。入口の形は、映画のとおり、三角形の鉄板を組み合わせたものである。
そのツアーの様子は「ウィーンの三日目(その1)」に書いてあるので参照して欲しい。


大都会を成立させる重要な条件の一つに、下水道の整備がある。
パリでも、その内部が観光コースになる程、地下「下」水道が発達している。
下水の処理には、近代科学の粋を集めた工夫がなされている。
しかし、下水はやはり下水だ。臭を完全に無くす訳にはいかない。
私の経験で言うと、1993年12月に冬のパリでセーヌ川の観光船に乗っていた。その時、セーヌの水が臭うのに気付いた。もっとも、最近は大分良くなっているようである。
また、ヴェネツィアには二度行っているが、やはり運河の水が臭う。日本ではヴェネツィアを絶賛する人が多いが、物価が高いこともあって、私は好きになれない。一番酷い表現を使うと、「ヴェネツィアはドブ川の上に浮ぶ街である」ということになる。

ひょっとしたら私は「嗅覚過敏」かもしれない。だから、臭いのきつい地下「下」水道ツアーは、残念ながら今回の一回でもう十分である、との感が強い。

この映画の「地下水道」のシーンを見たい人は
http://www.youtube.com/watch?v=He8kq34pQcc
にアクセスして下さい。

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2009年06月25日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(8) -

映画「第三の男」の舞台三ヶ所の探訪記を紹介しよう。

プラーター公園の大観覧車

映画では、この大観覧車に乗って、ホリーとハリーがウィーンで2度目の会話を交わす。
圧巻は、ハリーがホリーに向かって滔々と「悪の哲学」を語るシーンであろう。

さて、プラーター公園はウィーン北駅の傍(ということは、市のほぼド真ん中)にあり、手軽に行ける{市民の憩い場}となっている。
公園に入るだけなら無料である。大観覧車以外にジェットコースターやミニSLなどの遊具が充実している。

1873年にこの公園を中心にして「万国博覧会」が開催され、大観覧車はその後に建設された。

皆さんの中には「大観覧車なんて珍しくないヨ。ちょっと気の利いた公園のどこにでもあるモン」と言う人もいるであろう。
でも、建設されたのが1897年(明治30年)なんだから、驚きだネ。もう110年近く前にできて、今も動いているんだヨ。

そこで、大観覧車をジックリ観察してみよう。
高さは65m。100m超えのがザラにある現今では、中型機というランクになるだろう。
しかし、キャビンの大きさはソンジョそこらの比ではない。
多くのものが約1.5m角なのに対して、この観覧車はほぼ4m×2,5mのキャビンを持ち、12人乗りである。
内部に座席は無く、眺めたい方向へ自由に移動できる。

15台あるキャビンの中で、一台だけカーテンを施した小奇麗なキャビンを見付けた。
係の人に聞いてみると、内部にテーブルも置いてあるとのことである。
このキャビンは借り切ることができ、結婚式や誕生日パーティーに利用する人もいるトカ。
将に、「市民の要望」に応える営業をしている訳である。

ウィーン万博の17年後(1889年)に、パリ万博の記念碑として「エッフェル塔」が建設された。
エッフェル塔は今でもユニークな建造物として、多くの観光客を集めている。
それに反し、プラーター公園の大観覧車は数ある観覧車の一つに過ぎなくなってしまった。
しかし、観覧車をポピュラーな娯楽物とする先駆者として、その歴史的役割はエッフェル塔に比肩すると私は思う。どうだろう?

この映画の「大観覧車内での会話」を見たい人は
http://www.youtube.com/watch?v=mZg8a0
にアクセスして下さい。

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2009年06月25日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(7) -

ウィーンを舞台とする映画の中で、最も印象に残っているのは「第三の男」である。

この映画を見たことがない人でも、タイトルは知っているだろう。テーマ音楽がポピュラー・ミュージックの超有名曲となっているからだ。

私が再びウィーンを訪れた動機の一つは、この映画の舞台になった場所を訪ねてみたいと思ったからである。

まず、映画の荒筋を紹介しよう。

アメリカの貧乏作家ホリー・マーティンスが旧友ハリー・ライムの招きで、第二次世界大戦直後のウィーンにやってくる。当時、ウィーンは米英仏ソ四ヶ国の進駐軍により共同統治されていた。

ところが、ハリーは交通事故で死んでいて、葬儀が行われている最中であった。ホリーは葬儀で知り合ったイギリス軍のキャロウェイ少佐から、「ハリーは悪質な闇商人の黒幕だ」と聞かされる。怒りを感じたホリーは、親友の無実を証明しようと決意する。ハリーの恋人だった舞台女優のアンナと共に調査を進めると、交通事故を偶然目撃した門衛が見つかる。門衛は「現場では3人の男が死体を運んでいた」と言う。その内の2人は直ぐに身元が分かった。しかし、「第三の男」の正体が不明のまま、門衛は殺されてしまう。

ある夜、アンナのアパートを訪ねたホリーは不審な男に尾行された。闇の中から浮かび上がったその男はハリーであった。ホリーは追いかけるが、ハリーの姿を見失う。

ハリーの隠れ家を突き止めたホリーは、プラーター公園で会う約束をする。この時、ホリーは既に「ハリーが水で薄めたペニシリンで大儲けをする悪徳商人である」証拠を少佐から突きつけられていた。公園の観覧車の中で、ホリーは「ハリーが根っからの悪人になっている」ことを悟る。

病院で不正ペニシリンの後遺症に苦しむ患者を見て、ホリーの正義感は燃え上がる。さらには、偽造旅券行使で窮地にたつアンナを救うという交換条件で、ホリーは「ハリーをおびき出すおとりになること」を少佐に申し出る。地下「下」水道に逃げ込んだハリーは国際警察軍に追い詰められる。傷を負ったハリーは逃げおおせないと観念し、ホリーに自分を撃つよう合図を送る。こうして、ハリーは「本当に」死ぬ。

ハリーの葬儀の後、ホリーは歩いて帰るアンナを中央墓地の並木道で待っていた。二人の心には互いに通い合う感情が芽生えていると思われた。しかし、アンナはホリーに眼もくれずに去ってしまう。

この映画の冒頭部を見たい人は
http://www.youtube.com/watch?v=te9fqm6rUPY
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2008年08月25日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(6) -

「ウィーンの森」という言葉を聞くと、何かしらロマンティックな響きがする。多分、「ウィーンの森の物語」(ヨハン・シュトラウス2世作曲のワルツ)を思い浮かべるからであろう。

ところで、「ウィーンの森」を「ある特定の狭い地域」と考える人がいるかもしれない。とんでもない話である。ウィーンの森は、ウィーン市の3倍もの面積をもつ広大なものなのだ。

私の知るウィーンの森は、カーレンベルクとレオポルツベルクの展望台だけだ。ここは、ウィーン市の北部に位置し、公共交通機関のみで行くことができる利便の地だ。

そんな数少ない経験であるが、ウィーンの森から感じたことがある。それは、樹木がそんなに太くなく、背もあまり高くない。「森」というより「林」に近い印象だった。これは、ウィーンが西欧の中では寒冷の地であり、地味もあまり肥沃ではないからだと考えられる。しかし、こういう場所ばかりかどうかは定かではない。私が行ってないところには、鬱蒼とした森があるのかもしれない。よく知っている人にその真相を教えていただきたい。

ウィーンの森には数々の有名な場所がある。その中でウィーンの南西部にある「マイヤーリンクの館」が特に名を知られている。この地でハプスブルク家の心中事件が起きたのだ。オーストリア皇太子ルドルフが男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとともにピストル自殺を遂げた。このルドルフはエリーザベト皇后(シシー)の息子であり、マリーは17歳の若さだった。

この悲劇には強い関心が向けられ、クロード・アネによって小説化された。その記述を基にして、過去三度にわたり「うたかたの恋(あるいは『晩鐘』)」というタイトルで映画が作られた。さらに、多くのバレー作品も作られている。日本では宝塚歌劇でミュージカルとして演じられている。

最も新しい映画は1969 年のアメリカの作品である。この中でフランス女優のカトリーヌ・ドヌーヴがマリー役を演じている。私はこの映画をNHK・BS-2の「衛星映画劇場」で見た記憶がある。しかし、随分昔のことであり、当時はあまり関心が無かったので筋書きはほとんど憶えていない。しかも、この映画はDVD化されてないので、残念ながら入手が困難である。今度見る機会があれば、歴史的背景などを踏まえながら、内容をしっかり把握しようと思っている。

旅行から帰って、ウィーンに関することを調べれば調べるほど、その魅力が増してくる。

是非もう一度訪ねてみたい街である。

2008年08月23日 ウィーン トラックバック:0 コメント:4

旅の思い出 - ウィーン(5) -

皆さんは「ウィーン」という地名を聞くと何を思い浮かべるだろう?

ウィンナ・ワルツとか、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とか、ウィンナ・コーヒーとかの趣味的なものや、ウィーンの森とか、ドナウ川とかの懐かしい地名があろう。

それ以外に、というより本来的に、政治の地として重要だった。

長年にわたってハプスブルグ王家の、そしてオーストリア帝国の帝都であった。

さらに、ヨーロッパ中の注目を集める会議がシェーンブルン宮殿で執り行われた。1814〜15年のウィーン会議である。

さしもの権勢を振るったナポレオン1 世も、ロシア遠征の敗戦を機に力が弱まり、エルバ島に流される。ナポレオン戦争後を如何に収拾するかを決めるために、イギリス・オーストリア・ロシア・プロイセンなどの列強国がウィーンで会議をもった。しかし、列強間の利害が相反して、重要なことは何も決められなかった。この状況は、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されることになる。そうこうする内に、ナポレオンがエルバ島から脱出して勢力を盛り返す。あわてた列強は、とりあえずの妥協の産物「ウィーン議定書」を締結して対抗する。やがて、ナポレオンはワッテルローの戦いでイギリス・プロイセン連合軍に敗れ、百日天下に終わる。絶海の孤島のセント・ヘレナ島に流されたナポレオンは、その地で生涯を閉じる。

このような、ナポレオン・ボナパルトと列強の関係を頭に置きながら、ウィーンを、そしてシェーンブルン宮殿を見ると、興味が倍増する。

なお、ウィーン会議に関連するものして、ドイツ製のオペレッタ映画「会議は踊る」がある。中々面白いので、いつか紹介したいと思っている。

2008年08月07日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(4) -

ヨーロッパに興味を持ったきっかけは何ですか?

私の西洋に対する興味は、高校時代の「世界史」の授業から始まった。特に、ヨーロッパの中世や近代初頭に関心があった。何となく神秘的であり、何となく淫靡な匂いがしていたからであろう。

前回に紹介したマリア・テレジアは、政治的手腕があり、女傑であり、良妻賢母であった。このためにオーストリア国民に広く愛されている。

オーストリア国民に人気がある、もう一人の女性がいる。ハプスブルグ家の一員となり、シェーンブルン宮殿にも住んでいたエリーザベト皇后(1837-1898)だ。彼女は、マリア・テレジアの4世代後のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の妻で、愛称を「シシィ」という。身長172cm、体重50kg、ウエスト50cmのスタイルの良さに加えて、大変な美貌を誇っていた。

バイエルン王家出身のミュンヘン生まれで、近代的思想の持ち主だった。王家にいながら、王制を批判することもあった。そんな彼女であるから、ハプスブルグ家の古い体質に馴染めなかった。イタリアやハンガリーに旅行に出たり、詩歌作りに精を出したと伝えられている。そんな自由闊達さが人気を呼ぶのであろう。

彼女は、また、悲劇の女(ひと)であった。晩年には、息子のルドルフ皇太子が自殺してしまう。そして、彼女自身もスイス・レマン湖のほとりでイタリアの無政府主義者に殺害される。61歳の生涯だった。

前回紹介したガイド嬢(マリア・テレジアの多産を「女体の酷使」と批判)も、シシィのことを語る時は何か誇らしげで嬉しそうなのが印象的であった。

2008年08月06日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(3) -

:現在のオーストリアは、国土面積が日本の22%に過ぎない小さな国である。しかし、かつてはハプスブルグ家の強大な権力の元に、広大なオーストリア帝国としてヨーロッパを席巻していた。有名なウイリアム・テルの物語は、スイスがハプスブルグ家の支配から独立しようとしていた時の話である。

第一次世界大戦の直前には、オーストリア-ハンガリー帝国が存在した。ドイツ・オランダ・イタリア・スイスなどの領地を失ったハプスブルグ家が、復権を期してハンガリーと手を結んで作った国である。戦前の教育を受けた人は、ハンガリーという言葉を聞くと、この「オーストリア-ハンガリー帝国」を先ず思い浮かべるとのことである。しかし、この帝国は第一次世界大戦の終結時にはもろくも崩壊していた。

このようなハプスブルグ家の栄枯盛衰の内、栄華を物語るものがウィーンにある。世界遺産のシェーンブルン宮殿である。

この宮殿は、1695 年にレオポルト1世が狩猟用の別荘として作ったのを、1750年頃にマリア・テレジア女帝が「夏の離宮」つまり「別荘」として完成させたものである。しかし、別荘といっても、庶民感覚とは2桁以上違う。1400余りの部屋がある4階建ての建物は全長180m。庭園は1.2km×1km。宮廷劇場、見晴台状の建物、さらには動物園まである。ともかく、その豪華さは一見の価値がある。

マリア・テレジアは皇位に就いたことはないが、政治的手腕は大したもので、実質的には女帝であった。彼女は女傑とも称されるが、それは子供が多いことにも起因する。夫のフランツ1世との30年間の結婚生活中に5男11女を授かった。

私がシェーンブルン宮殿を訪れたのは2004年7月で、ツアーに参加して行った。その時のガイドは30歳代後半の女性で、テレジアの多産を「女体の酷使」と何度も憤慨していた。しかし、これは当を得ていない。テレジアの父が世継ぎ不足に悩んでいたので、できるだけたくさんの子供を産むというのが「政策」だったのだ。

そんな女傑のテレジアであったが、死の床についても子供のことが心配であった。特に、第15子で末娘のマリア・アントニーアには心を痛めていた。その娘はフランスのブルボン家に嫁いでいて、フランス名を「マリー・アントワネット」といった。母の案じたとおり、マリーはフランス革命の際に、夫のルイ16世共々断頭台の露と消えてしまう。歴史とは、かくも残酷なものである。

2008年08月05日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(2) -


オーストリアは、西欧諸国の中では最も東に位置する。しかも、首都ウィーンは、東西に細長い国土の東の端にある。ということは、ウィーンの目と鼻の先は東欧ということになる。

ところで、ユーレイル・グローバルパスは西欧と北欧のほとんどの国で使える。しかし、東欧で通用する国は数少ない。その一つがハンガリーである。そこで、2007年7月にフラリとウィーンへ行った時に、ハンガリーの首都ブダペストまで日帰り旅行をしてみた。

ウィーン〜ブダペスト間は、鉄道で約3時間の旅である。東欧に入ったからといって、車窓から見る風景が特別変わる訳ではない。麦畑やとうもろこし畑が平和に続いている。しかし、国境に懸ると、パスポートや持ち物の検査がきっちりとなされた。さすがは「東欧の国」という感じである。

ブダペスト駅に着いて、観光案内所でもらった市内地図を頼りに、ドナウ川へと向った。ハンガリーではユーロ貨幣が通用しないので、両替をしないとバスにも乗れない。でも、両替所を見つけるのが面倒で、ひたすら歩くことにした。

暑い中を駅から西方に歩くこと約30分で、ドナウ川に着いた。橋を渡り、遊歩道がある小高い丘に登り、街を見渡す。ドナウ川はかなり広く、大型の観光船が行き来していた。玉葱形の屋根を持つ由緒ありげな建物や王宮らしきものも見えたが、それが何であるかはどうでもよかった。それらの風景をのんびりと眺めることで満足していた。

再び歩いて、駅に戻った。お腹が減ったが、両替するのが面倒で、持ち合わせの非常食で昼食とした。結局、ハンガリーでは全くお金を使わない「ケチケチ旅行」となってしまった。

ウィーンへ帰る車窓から、30基近くの風力発電用の風車が密集している場所が見えた。東欧の国もエコロジーを重視しだしたことが肌身で感じられた。

2008年08月03日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(1) -

今年の旅では、最初の地としてウィーンを選んだ。
ウィーンには2004年7月に一度行ったことがある。しかし、この時は当初から行く積もりだった訳ではない。イタリアの余りの暑さに閉口して、ヴェネチアからフィレンツェへ行くのを方向転換して、挙げ句の果てに辿り着いたのがウィーンだった。だから、何の予備知識もなく、思い付きでプランを立てた。
この時は、2日目の昼にシェーンブルン宮殿観光のツアーに参加した。このツアーについては、次回に詳しく述べよう。その夜はワルツ・ポルカ(と少しだけのモーツァルト)のコンサートに行った。
3日目は、ハンガリーのブダペストまで日帰り旅行をした。ユーレイル・グローバル・パスを持っていたので、割り増し料金無しで行けたからだ。この時の話も次々回に書くとしよう。

2004年の旅行から帰って、ウィーンでやり残したことがあまりにも多いのに気がついた。ウィーンの森に行っていないし、ドナウ川も見ていない。「第三の男」ツアーがあることは知っていたが、その時には頭の隅にも浮かんでこなかった。こうして、ウィーンには未練タラタラのままで過ごす破目となった。

このような次第で、オーストリア・アルプス(すなわち、チロル地方)へ行く前に、ウィーンを訪れる気になったのである。

2008年08月01日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - 航空機 -

私の過去の海外旅行では、ヨーロッパとアメリカ(合衆国)しか行っていない。だから、行ったことがあるのは「欧米かッ?!」とトシに頭を殴られても仕方がないのである(海外に住んでいる人は、この文のどこが面白いか理解できないであろう)。

暇ではないが、この文章を書くために数え上げてみると、15回の欧米旅行で合計61回飛行機に乗っている。思い出に残る飛行を書いてみよう。

1974年6月、初めての海外旅行で使ったのは、アエロ・フロート航空。現在のロシア、当時のソビエト連邦の航空会社。値段が安いのが特徴だが、ダブル・ブッキングが多いので有名だった。だから、たとえチケットを持っていても、自分の座席に座るまで安心できなかった。
行きは成田-モスクワ-パリ、帰りはローマ-モスクワ-成田と無事に飛行した。

二度目の海外旅行は、1975年11月、アメリカのサン・ディエゴ。当時は、アメリカ本土へ行くには、必ずハワイのホノルルで入国し、その後国内便で海を渡った。航空機の飛行距離が短いのと入国手続きの便宜のため、このようなシステムとなっていたのだ。お陰で、往復の各2日間、ハワイで遊ぶことができた。ただし、この頃アメリカに行くにはビザが必要で、神戸のアメリカ領事館までビザを取りに行くのが面倒だった。

三度目の旅行は、アメリカのテキサス州オースチン(1982年7月)。南のテキサスへ行くのに、まず下りたのが北方のシアトル。7月なのに吹雪で2 時間遅れ。乗り継ぎの便が間に合わず、次の便でデンヴァー(コロラド州)へ。さらに乗り継いで、オースチンへ。長い飛行旅だった。

4度目は、まず、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港へ。成田出発が5時間以上遅れた。目的地は、ニュー・ジャージー州(ニューヨーク州のすぐ北の州)のニュー・アーク空港。乗り継ぎの便がないため、ヘリコプターで移動。プロペラ音の喧しいのには閉口した。

5回目はヨーロッパ5ヶ国(1991年9〜12月)。ノーマル料金のエグゼクティヴ・クラス。航空便の変更が自由にできるのはありがたかった。
名古屋-成田-マドリード-ロンドン-ミュンヘン-ジュネーヴ-マルセイーユ-パリ-成田-名古屋、と渡り歩く。

6〜8回目は、すべてパリ。大韓航空利用。

9回目からは、今日に至るまで、エール・フランス航空利用。
1991年と今年を除いて、必ずパリの街で何日かを過ごしている。
使った空港は、トゥルーズ、マルセイーユ、リスボン、チューリヒ、ウィーン、ローマ、フィレンツェ。

6回目以降は航空機に関して順調で、特記することが無い。ご同慶の至り。

2008年07月26日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

旅行の知恵 - ホテルの選び方 -


個人旅行をしている人は、どのような基準でホテルを選んでいるのであろう?

私のヨーロッパ旅行では、移動手段としてもっぱら公共交通機関を利用している。そのような状況で、旅の宿を探す時の条件として、次のようなことを心掛けている。参考にしてもらいたい。

ホテルを探す時、まずターミナル駅から徒歩5分以内を第一条件とする。ここで「ターミナル駅」とは、その街に中央駅があればそれを、無い場合は空港からのリムジーンバスが到着する国鉄駅、を指す。
大きな駅の近くのホテルは一般的には割高であるが、それには代えられない利点がある。
ターミナル駅からさらに地下鉄またはバスでホテルに向かうことを考えよう。夜遅く疲れてターミナル駅に着いたとき、さらにそこから乗物に乗るのは大変である。駅を探し、自動販売機でキップを買い、行く先を確認しなければならない。つい億劫になって、タクシーに乗ってしまう。そういう経験は無いだろうか?
その点、ターミナル駅近くだと、余計な出費は避けられる。
さらに、郊外に出掛けるときは大抵ターミナル駅から出発する。すると、ホテルとターミナル駅の間の往復運賃が必要となる。
ターミナル駅近くだとその必要はない。
さらに、さらに、ターミナル駅近くのホテルには、次のような使い方がある。
午前中にAという場所へ観光に行き、午後はBという場所へ出掛ける場合がよくある。そして、AからBへ行くには、一旦ターミナル駅まで戻る場合がしばしばある。このとき、駅のトイレを利用しようとすると、大抵は有料だし、混んでいることが多い。そのような時、私はホテルに戻り、自分の部屋で心おきなく用を足す。ついでに、午前中に貰った地図・パンフレットを置いていく。また、午前に持ち忘れたものを補充する。
このように、ターミナル駅近くのホテルは、公衆トイレとロッカー・ルームの役目もしてくれる訳である。

とは云え、この方法は大都会(例えば、パリ、ロンドン、ベルリンなど)では、思い通りにはいかない。
今年の旅行では、ようやく見つけたウィーンのホテルはターミナル駅「ウィーン西駅」から4つ北の地下鉄近くであった。

こういう制限はあるものの、ターミナル駅近くに宿を取るよう努力してみることは価値があると思っている。

2008年07月24日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 2007年以前 - ホテル -

ホテルに関する思い出は強烈なものが多い。

1974年6月、私が35歳の時、生まれて初めて海外旅行を経験することになった。核融合に関する国際会議に出席するのと関連研究所を視察するためである。
その「御一行様」は私一人。つまり単独旅行であった。
「生まれて初めての海外旅行」で、「タッタ一人だけの旅行」なのに、ソレなのに、私はホテルを予約していかなかった。
最初から海外旅行を舐めきって、「マア何とかなるサ」と考えていたのだ。こんな人は、たぶん他にはいないだろうナ。

さて、初めて踏んだ外国の地はパリ空港。当時はシャルル・ド・ゴール空港なんて影も形もない。パリと云えばオルリー空港、と相場が決まっていた。
初めてのホテルは、エール・フランスのカウンターに日本人女性のスタッフがいたので、紹介してもらった。××行きのバスに乗り、△△で降りればホテルがあるという。
ところが、バスの停留所が何処にあるのか分からない。ウロウロしていると、パリジャン数人が寄ってきて「そのホテルならタクシーで行け」、「イヤ、タクシー代の方が宿代より高くなるゾ」などと勝手なことをぬかしておる。そこで私は「あそこに見えているホテルまでタクシーで行くから、俺に構うな。」と彼らを振り切った。この時に私の「海外武勇伝」が始まった。何人(なんびと)も恐るに足らず、と。

ところで、私が泊まった最も高いホテルと最も安いホテルを紹介しよう。

最高値のホテルは、スイス・チューリヒのホテル・シュヴァイツァーホフ・チューリヒで、35000円位(1999年6月)だった。
この時は、当日の朝インターラーケンを出発し、ユング・フラウ・ヨッホとミューレンへ行き、インターラーケンに戻った。さらに、翌日帰国するためにチューリヒにたどり着かねばならなかった。チューリヒに着いた時、当日の行動時間はすでに16時間を超え、クタクタだった。ともかく早くホテルに入りたい一心で飛び込んだのが、駅前のこのホテル。もう値段なんてどうでもよかった。しかし、帰ってからクレジット・カードの請求を見て、後悔せずにはおられなかった。

最安値のホテルは、アムステルダムの飾り窓街(1974年6月)。ベッドだけの狭い部屋で、トイレ・シャワーは共同。1500円だった。
その他、安宿ならマルセイーユのアラブ人街、パリ北駅付近の怪しげな宿に泊まったことがある。

ホテルではないが、素晴らしいところに泊まったことがある。ミュンヘン郊外のマックス・プランク研究所の宿泊設備だ。研究者が家族と共に暮らせるように、広くて設備が行き届いていた。しかも、宿泊費は格安。もちろん、仕事で行かないと利用できないが、ずいぶん得をした感じがした。

最後に、特別なホテル。コルシカ島(フランスですョ)のアジャクシオで去年泊まったホテル。TVで無料のポルノを流していた。有料のポルノは珍しくないが、無料のハード・ポルノとはネェ。さすがはナポレオンの生まれた街。ここでは、英雄だけではなく、民衆も「色を好む」ようだ。

2008年07月18日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 2008年 - ホテル -

個人の海外旅行で「自分の意志で選べる三大要素(これをトラベル・パーツという)」は、航空券(航空会社、目的地)、目的地での移動手段(鉄道、バス、レンタカーなど)とホテルであろう。
反対に、「自分の意志ではどうにもならない要素(これはトラベル・パーツ[Travel parts]ではなく、トラブル・パーツ[Trouble parts]というべきか?)は、天候、災難とハプニングであろう。

今回は、今年の旅行で経験した「ホテルの諸事情」について述べる。
ホテルに関する今年の最大関心事は、インターネットができるかどうかであった。その情報を筆頭に、ホテルの設備等」と「客への対応」について、私が泊まった11のホテルに関する評価をまとめる[()内のオはオーストリア、イはイタリア、スはスイス、フはフランスを示す]。

                  インターネット  設備   対応
ウィーン(オ)              ▲      ○    △
ザルツブルク(オ)           ◎      ○    ◎
インスブルック(オ)           ×      ▲    ▲          
コルティナ・ダンペッツォ(イ)     ×      ○    ○
ボルツァーノ(イ)            ▲      ○    ▲
サン・モリッツ(ス)           ◎      ◎    ◎
ツェルマット(ス)             ◎      ○    ○    
シャモニー(フ)              △      △    ◎
アオスタ(イ)               ▲      ◎    ×
ミラノ(イ)                 ▲      ○    ×
フィレンツェ(イ)             △      ○    ◎

各ホテルで特筆すべき点を掲げる。

ウィーン  
通された部屋には6つのベッドがあった。泊まるのは私だけで相部屋ではない。広い部屋が好きな私は、もちろん、クレームはつけていない。部屋の中でジョギングができた。インターネットは、高い金を支払ってインターネット・カフェで行うより他に手はなかった。

インスブルック
インターネットは使い物にならない。チップを置かぬと「イジワル」をされる。

コルティナ・ダンペッツォ

インターネットはまったくダメ。宿のオヤジさんは友好的。かつて泊まったナポリの宿のおじさんとよく似た顔立ちをしていた。イタリアの庶民顔。

サン・モリッツ
ここは、最高のホテル。フロント(Reception)のオネーさんに英語、フランス語、ドイツ語のいずれの言葉で話しかけても的確な返事が返ってくる。各種レストラン4軒とテイク・アウトの店まである。駅からバスで15分かかることを除いては、文句の付けようが無い。オススメの宿。

シャモニー
インターネットは近くの観光案内所か図書館で、無料で行える。部屋は床がギシギシ鳴った。フロントは、日本語の片言を喋り、友好的。

アオスタとミラノ
インターネットは有料で、かなり高価につく。フロントの態度は頭にくるほど悪い。詳細はまたの機会に。

と言うわけで、
もう一度泊まりたいホテル
サン・モリッツ、ザルツブルク、ツェルマット
二度と泊まりたくないホテル
インスブルック、ミラノ、アオスタ、ボルツァーノ

最悪のホテル4軒中3軒はイタリアだよネェ。お国柄というべきか....
もっとも、その街にある全てのホテルについて評価をしている訳ではない。たまたま私が選んだホテルがそうだったと言うこと。誤解しないように !!

2008年07月17日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

今年の旅行を総括する(3)

先回、「『ホテルの従業員の対応』と『その国のお国柄』の関係」について書いた。これは、私の数少ない経験から割り出した結論であり、普遍性があるかどうかは自信がない。すなわち、フランスとスイスは近代的雇用関係が確立しているのは間違いない。しかし、オーストリアとイタリアが前近代的雇用関係に留まったままであるかについて、きっちり調べたわけではなく、私の推測の域を出ない。

この点を指摘して下さったKKLさんにお礼を言いたい。なお、KKLさんはフランス在住の日本人女性(夫君はフランス人)で、フランス北西部にあった「ソニーの下請け会社」に勤務していた。出張や休暇でしばしば西ヨーロッパ各地へ出かけ、ホテルの利用回数は私より遥かに多い人である。

さて、帰宅して10日が過ぎた。旅の余韻も消え、通常の生活に戻った。それでも尚、今年の旅行は充実していたという念は強い。多分、今年の旅に「計画性」があり、それがほぼ実行できたためであろう。

旅行のスケデュールは、今年の初めにほぼできていた。しかし、詳細はまだ不明なところが多かった。特に、ドロミテ山塊は「イタリア全体のガイドブック」には記述がない。そこで、区の図書館で調べ始めた。その時、「最後の晩餐」の見学は早期の予約が必要ということを知り、2月半ばに予約した。ホテルは 4月中に予約。チロル地方、サン・モリッツ、ツェルマット、モン・ブラン山系の展望台についても、そこから見える山々の写真と名前のページをコピーした。私にとって、これほど旅の準備をしたのは初めてのことである。いつもは、大まかな旅のコースを決め、飛行機を予約すれば、計画はほぼ終わり。あとは現地に着いてから、何をするか、次はどこへ行くかを決めていた。

そのような「自由奔放」な、逆に言えば「無計画」な旅は、2007年7〜8月の32日間であった。当初予定は、フランス・スイス・イタリアを巡る旅で、時刻表・ガイドブックはこの3ヶ国分しか持っていない。ただ、ユーレイル・パスはグローバル(ヨーロッパのほとんどの国で通用)・パスを購入していた。フランス・スイスを予定通り終え、ミラノ・ヴェネツィアも無事終了した。次は、フィレンツェへ行く積りでヴェネツィアのサンタ・ルチーア駅に行った。発車案内盤を見ると、次に出る列車はウィーン行きだった。この時、私は神の啓示を感じた(神様は信じていないけれど)。イタリアは暑くてしようがないし、車掌や警官とのいさかいも有った(相手は英語があまり喋れない)。そこで、さっさとウィーンへ行ってしまった。

当初予定ではフィレンツェ・ナポリ・ローマと行き、ローマからマルセイーユまでの航空券を特別料金を払って買ってあった。しかし、そんなことはどうでもいい。涼しくて、言葉の通じる国に行きたかった。

ウィーンからはブダペスト・再びウィーン・ザルツブルク・ベルリン・ハンブルク・アムステルダム・ブリュッセル・ルクセンブルグを経て、パリで「旅の帳尻」を合わせた。

この旅では、ホテル探しは当然、観光の仕方も現地に着いてから決める必要があった。旅行案内所やホテルでの情報収集に時間がかかって、観光効率はよくなかった。

このような旅行に比べると、今年のは予め調べてあったので、効率はずっとよかった。やはり、「行き当たりばったり旅行」より「計画をよく練った旅行」の方が「一日の長」があるようだ。

という訳で、「今年の旅の総括」はメデタク終わりにしよう。

次回からは、今年の旅で書き残したもの(既に書いたのより多いはず)について述べよう。

2008年07月09日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

今年の旅行を総括する(2)

最近、我が家で音楽を聴くことがめっきり減った。余りにも趣味が多いので、じっくり音楽を鑑賞している暇がないというのが正直なところ。でも、今朝は久しぶりに聴いた,ヴェルディ作曲「椿姫」を。聴いていて、この歌詞の意味が少しでも解ればもっと楽しいだろうと思った。ソウだ、一年半前に決心して頓挫した「イタリア語の本格的な勉強」を再開しよう。

今年は、国としては4ヶ国を訪ねた。オーストリア、イタリア、スイス、フランスである。この4つの国について、ホテル従業員(いわゆる、メイド)の対応から「その国の『お国柄』」を考察してみよう。ただし、このような考察は今年の旅行だけでは無理があるので、過去の経験も加味する。

私は、原則として、チップ(いわゆる、枕銭)を置かない。そうすると、どういう待遇になるか?

今年の場合、インスブルックのホテルでは、石鹸とシャンプーが補充されていなかった。僅かだがチップを置くと、5日分の石鹸とシャンプーがきっちり補填されていた。

今年はそれ程感じなかったが、やはりイタリアのホテルで不満を感じたことがあった。物の補充が悪いとか、ベッド・メーキングが雑であるとかを。

フランスやスイスのホテルでは、そのような感想を抱いたことはない。

これは、何を意味するか?

オーストリアやイタリアでは、メイドは安い給料で雇われていて、いまだに客からのチップが生活の糧になっているのであろう。これに対し、フランスやスイスでは、チップに頼らなくてもよい「雇用関係」が結ばれている(フランス政府公認ガイド HT さんの情報やスイス政府観光局のパンフレットによる)。

こういう意味で、オーストリアやイタリアは前近代的な社会構造であることがうかがい知れる。

これは、公衆用ワイヤレス・インターネットの普及についても、同じような状況にある。フランスやスイスでは、無料の無線LANが楽しめる。それに対し、オーストリアやイタリアでは使いものにならないか、使えても有料(それも、かなり高い)になってしまう。ただし、ザルツブルクは例外である。ここの郊外にはソニーの工場があり、インターネット環境が整っている(ソニーの元フランス下請会社に勤めていたKKさんからの情報)。

このように、何ヶ国かを旅行していると、その国特有の事情というのが分かってきて面白い。

今回は少し堅い話になってしまった。次回には、グッとくだけた話をしよう。

2008年07月05日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

今年の旅行を総括する(1)

前回までは、旅先で体験した事柄とそれに対する喜びや怒りといった「(なま)の」感情を素直に文章として綴ってきた。

これからの文は、今年の旅行を客観的に振り返り、過去の旅の思い出を重ね合わせて、話を多方面に発展させていきたい。

ナ〜ニ、話のネタは、これまでに書いた百倍もあるサ。このブログはまだ始まったばかりなのだ。息切れせずに書き続けたとしても、終りがくる前に「来年夏の旅行」が始まるであろう。

さて、今年の旅行を一言で云うと、かなり充実していたと言えよう。もちろん、今はまだ「旅の余韻」が残っているので、評価が多少甘いと感じられる。時間が経つにつれ、より客観的な評価に変わっていくであろう。

今年の旅が、昨年までの旅行と大きく違う点が二つある。

一つは、既に書いたが(ザルツブルクの2日目)、ホテルを予約して行ったことだ。これにより、日程を適宜変更することは難しくなった。その反面、疲れているのに夜遅くからホテルを探す苦労はなくなった。功罪相半ばするが、精神的には今年の方がやや楽だ。

もう一つは、ブログを書き始めたこと。一日のできごとを振り返り、主な事柄を文に記すことより、記憶が鮮烈に残ることになった。それに、ブログを書くために、夜遊びが少なくなった。夜11時頃にホテルに帰り、風呂と洗濯を終えて寝、翌朝5時に起きて行動を開始する。こんな無茶苦茶な生活はしなくなった。ブログ様々である。

今年できたこと、したこと

コンサート・・モーツァルト、オペラ・・椿姫

映画舞台のツアー・・第三の男、サウンド・オブ・ミュージック

美術館・博物館・・セガンティーニ美術館、最後の晩餐(レオナルド・ダビンチ)、ウッフィツィ美術館、楽器博物館(アッカデミア美術館)

世界遺産・・ウィーン旧市街、バッハウ渓谷、ザルツブルク旧市街、フィレンツェ歴史地区

アルプス・・イグルス展望台(チロル)、ディアヴォレッツ展望台(ベルニナ・アルプス)、ムオッタス・ムラーユ展望台(サン・モリッツ)、ゴルナーグラート展望台、マッターホルン・グレーシャー・パラダイス、シュヴァルツ・ゼー(ツェルマット)、ル・トゥール、フレジェール-ランデックス、シャモニー-プラン・ド・レギーユ-エギーユ・デュ・ミディ-ポワント・エルブロネ-トリノ小屋-パヴィヨン・デュ・モン・フレイ-ラ・バリュー(モン・ブラン山系)、チェルヴィーニア

小旅行・・インスブルック-ボーデン湖、コルティナ・ダンペッオ-ドッビアーコ湖、コルティナ・ダンペッツォ-カラルツォ、ボルツァーノ-プラン、ボルツァーノ-エガ谷、サン・モリッツ-マロヤ-ソーリオ-キアヴェンナ、サン・モリッツ-ポスキアーヴォ、ミラノ-コモ、フィレンツェ-オルヴィエート

今年できなかったこと、行けなかったところ(きっちりと記憶)

ザルツブルクでのコンサート、チロル地方見物、ドロミテ山塊の中心部(トレ・チーメなど)、エンガディンの展望台(コルヴァッチなど)、ツェルマットの展望台(ロートホルン・パラダイスなど)、モン・ブラン山系の展望台(ブレヴァンなど)、トリュフ料理を満喫

以上で今回は終り。まだまだ何回も続きます。

2008年07月02日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

フィレンツェの四日目 - 帰宅

6月28日午後3時、無事帰宅。先ずは、報告。

イタリアは既に4度訪問しているが、使った空港はローマ・フィウミチーノ空港ばかり3回(1回は陸路のみ)。1974年6月時点では、レオナルド・ダヴィンチ空港と言うのが正式名だった。
しかし、今回はフィレンツェ空港からパリのシャルル・ド・ゴール空港へと飛び立った。

フィレンツェ空港は小さく、街から近い(バスで20分)ので、非常に使いやすい。もう。二度とローマ空港は使わないだろう。
それに、パリ・ローマ空港間はアリタリア航空が運用しているのに対し、パリ・フィレンツェ空港間はエール・フランスが運営している。多分、エール・フランスとしては、ローマの方は首都だからイタリア側に譲らざるを得なかったのだろう。しかし、フィレンツェ便をイタリアに任せたのでは、苦情が多くて商売にならないのであろう。

フィレンツェ空港を飛び立つ時、赤い屋根の多い町並みが見下ろせる。40分ほど飛ぶとアルプスの山並みが見えてくる。はっきりとした特徴をもつマッター・ホルンとモンテ・ローザが見えた。ツェルマットにいた時、上空高く飛行機が飛ぶのを何度も見ているので、この辺りが飛行コースになっているのであろう。天気がよく、眼下の色々な景色が楽しめた。

パリのシャルル・ド・ゴール空港に着けば、勝手知ったる所。もう日本に着いたも同じ気分。以後、何事もなく帰宅。

2008年07月01日 フィレンツェ トラックバック:0 コメント:0

フィレンツェの三日目 (その2)

楽器美術館の後は、予約してあった「ウッフィツィ美術館」へ。3年連続・3回目。
私はこの美術館へ昼寝のために行く。ボッチチェリの「春」を正面に、「ヴィーナスの誕生」を左に見るベンチに腰を下ろし、絵と見物者を観察する。
そのうちに眠くなり、コックリ・コックリする。ハッと目を醒まし、また観察する。それからまた寝る。
これを繰り返して1時間半ほどすれば、日頃の睡眠不足が解消できるのである。

いよいよ、明日は帰国の途に着く。旅の終わりはいつも悲しい。あと3日、いや1日でもいいから長くいたい、と思う。しかし、帰りの飛行機が決まっているので、後ろ髪を曳かれる思いでシブシブ帰るのである。

2008年07月01日 フィレンツェ トラックバック:0 コメント:0

フィレンツェの三日目 (その1)

音楽をやっている人でも、ピアノがどこの地で発明されたか、またヴァイオリンはどこで発展したかを知る人は多くないだろう。

これらのことに私は興味を持っていた。NHKの番組でフレンツェがその地だと知り、楽器博物館なるものがあることも分かった。
そこで、私の活字引の Yさんに問合せたが、さすがのYさんも知らなかった。その後、周りの人に聞いても、誰も知らなかった。最後に、市の観光局まで出掛けてくれたのだが、そこでも分からない。と思ったところ、唯一知っている人がいたそうだ。

で、その場所はアッカデミア美術館の中にあるという。
アッカデミア美術館といえば、ミケランジェロのダヴィデの像が有名だ。有名どころか、予約してないと最悪2時間待ちのこともあるという。私は2006年11月に行ったことがあるが、その時はダヴィデの像のところで2時間ほど過ごした。が、楽器博物館があるとは気が付かなかった。

今回は予約してないので、朝一番に行くことにした。8時15分開館なので、7時35分に着いた。もう15人くらい並んでいた。

入ると真っ先に楽器博物館へ急行。コンピュータが6台置いてあって、様々な楽器や宮廷音楽の歴史、関連音楽家の紹介などが項目をクリックすれば次々に現れる。見たこともない楽器の音も聞かせてくれる。楽器を見る前に、2時間くらいかけてコンピュータ画像を見る。楽器の展示は豊富だ。もっとも古いピアノの原型がある。非常に面白かった。

ところで、ビアノはフィレンツェの「バルトロメオ・クリストフォリ」が発明した。その原型はチェンバロである。では、チェンバロとピアノの決定的な違いを一言で表すことができる人はいますか? 宿題にしておこう。

ヴァイオリンの仲間もフィレンツェで発展した。その他、宮廷音楽、宮廷バレーもフィレンツェだ。また、後にフランスで華開く「宮廷料理」もフィレンツェが原型だ。アイスクリームの発明も同じ。

こらは皆、メジチ家の援助により成り立った。
美術の面でミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロが活躍できたのもメジチ家のお陰。
文化に関心を持つ突出した富豪がいたからこそ、文化が発展したのだ。「貧富の差が文化を産む」とは、Yさんの薀蓄のある言葉だ。

2008年07月01日 フィレンツェ トラックバック:0 コメント:0

フィレンツェの二日目 (その2)

危なかった。もう少しで大変な事になるところだった。

夕食時の話である。昨日紹介した「ホテルの元スタッフの日本人女性」(以下、仮に 'Yさん' と呼ぶ)と一緒だった。
私が「庶民的な料理を食べたい」とリクエストしたので、それに見合う店に連れて行ってもらった。
さて、食事が終わって勘定書が出てきた。普段、私は金額も見ずにクレジット・カードを渡してしまう。しかし、この時は合計金額がチラッと見えた。いつもの金額より2桁大きい。最初は『リラ』表示かと思ったが、それにしてもおかしい。
Yさんに言って店の人に確かめてもらうと、間違いであることは認めた。しかし、認めるには認めたものの、まったく謝ろうともしない。店の人間は「そんなことはよくあることだ、人間は間違えることがあるのだ」とすました顔をしている。もし、気が付かずにサインしていたら、30万円以上取られるところだった。

正義感の強いYさんは、このような場合のイタリア人のでたらめ振りを、面と向って怒ることが多いそうだ。今回も、ホテル関係者として、今後その店をホテルの客に紹介しないときつく言い渡したという。

その店の名をはっきり書いておこう。マリオーネ(Marione)というレストランで、ガイドブック「地球の歩き方・イタリア('06'〜07)」の167ページに載っている。皆さん、気をつけましょう。

その他、まだ書いていない様々なトラブルを体験している。その多くは「イタリア」である。いづれ、イタリア旅行の心得を特集する積りだ。

ということで、オルヴィエートという街へ「きのこ料理」を食べに行った話は省略。

2008年07月01日 フィレンツェ トラックバック:0 コメント:0

フィレンツェの初日

昼食後、フィレンツェに向う。午後5時前に到着。暑い。35℃。天気予報では、イタリア中で最も暑い。さすがはイタリアの京都、盆地気候。

フィレンツェは3年連続・3回目。熟知の地。ホテルも3年連続同じ。オーナーのイタリア人中年女性を、私はファースト・ネームで呼んでいる。昨年、元スタッフと一緒に撮った写真をプレゼント。

元スタッフは若くてきれいな日本のお嬢さん。今は同系列の「旅行者ハウス」に勤務。英語とイタリア語はペラペラ。接客にしろ、電話にしろ、彼女が話し淀んだり、考え込むという姿を見たことがない。

気立てがよく、色々なことを教えてくれる。夕食にも付き合ってくれる。旅行好きで、私の旅行経験談を歓んで聴いてくれる。私にとって、「イタリアの活字引」。

何だかだと言うものの、「ミラノにスカラ座がある限り」、「フィレンツェがトスカーナ地方の中心地である限り」、精神安定剤と頭痛薬と胃腸薬とを大量に買い込んで、これからも「憎っくきイタリア」に何度も来ることになるのだろうナ。


今はインターネットの調子は安定しているようだ。そのせいで、私もちょっと調子に乗りすぎたようだ。もう終わるとしよう。

2008年07月01日 フィレンツェ トラックバック:0 コメント:0

ミラノの三日目 (その2)

最後の晩餐のあとは、例によってドゥオーモ詣で。また中に入る(なんたって、タダだもんネ)。
今回は屋上には出なかった。

余りの暑さに、上着をホテルに置いてきてしまった。財布は上着のポケットの中。小銭入れに地下鉄切符3枚分の硬貨があっただけ。お茶すら飲めず、ホテルに引き返す。

ドゥオーモが済めば直ぐにフィレンツェに行く予定だったが、3時間ほど遅らせることにした。
昨夜スカラ座に行っていて、おいしいリソットが食べられなかった。
そこで、改めて今日の昼食で食べようとしていたからだ。この顛末については、いづれまた。

2008年07月01日 ミラノ トラックバック:0 コメント:0

ミラノの三日目 (その1)

今朝、私はサンタ・マリア・デッレ・グラッツェ教会の「修道院の食堂」にいた。
ここの壁にレオナルド・ダヴィンチ作「最後の晩餐」の油絵(フレスコ画ではない!)があるのだ。
この絵は『ダヴィンチ・コード』の大ヒットにより有名になり過ぎた。
見学(見物?)するのに、少なくとも3ヶ月前にインターネット予約しないといけない。私は4ヶ月半前の2月中旬に予約したが、それでも午前は8時半の部しか残っていなかった。

さて、行ってみると、日本人の団体がいた。多分、いい時間帯は皆、日本の旅行社が押さえているのだろう。腹が立つ。

この見学は入替え制。15分たつと追い出される。マア、一度見れば十分なんだケド。

ダヴィンチ・コードだけと云わず、キリスト教に関する色々なことを語りたいが、これは生涯の仕事。

2008年07月01日 ミラノ トラックバック:0 コメント:0

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