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ブログ事始

リューベック

若者もすなるブログというものを、年寄りもしてみむとてするなり。

(2009年6月24日 書込み)
5日後(6月29日)から32日間、13回目のヨーロッパ旅行に出かけます。
行き先は北欧四ヶ国(ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、デンマークの順)、ドイツ北部およびチェコです。
今年も小型パソコンを持って行き、現地から生の感想を発信します。

(2008年5月27日 書込み)
明日(5月28日)から32日間、12回目のヨーロッパ旅行に出かけます。
アメリカ旅行を合わせれば、15回目の海外旅行になります。

旅行中の出来事や生々しい感想をブログに綴っていきたいと思います。
また、折に触れて、過去の旅行の思い出も付け加えていく積りです。

ヨーロッパに対する私の想い が集大成できれば大成功なのですが....

写真 : 途中下車して訪れたリューベックの街 (ドイツ北部、世界遺産登録済)

2009年08月18日 プロローグ トラックバック:0 コメント:8

2009年の旅を総括する (2)

今年(2009年)の旅は、過去16回の海外旅行で間違い無く最良の旅であった。
その理由を列挙してみよう。

(1) 健康に恵まれた。
一ヶ月の旅行中には、「今日は疲れたから、ホテルで寝ていよう」とか「風邪薬を飲んで静養しよう」という日が2〜3日有ってもおかしくない。ところが、今年はそのような日が全く無かった。
午前2時に寝、5時に眼を醒まし、風呂に入る。6時半〜7時からの朝食を済ませ、直ぐにホテルを飛び出す毎日であり、疲れたという感覚が無かった。
このことが、以下に述べる「全て良し」の結果に繋がったと思う。

(2) 多くの友人を得、多くの人と話ができた。
私の旅の第一目的は、「地元の人と話すこと」および「友を作ること」である。
勿論、景色か良いに越したことはないが、それは二の次である。

今回、現在でもメールを交換している三人の言語関係者に出会った。
一人は日本の方で、「自動翻訳」を研究している学者。
もう一人はドイツ人で、スカンジナビアの少数民族「サーミ人」の言葉についての辞書や文法書を出版している言語学者。
最後は、偶然知り合い、チェコ語の基礎を教えてくれたチェコ人男性。

その他、これから連絡しようとしている「ドイツの室内装飾家の女性」や「ドレスデンの国立美術館に勤めるチェコ人女性」。
旅の途中で会話を交わした「忘れえぬ各国の人々」やこのブログを紹介した「日本人旅行者の方々」。

(3) ヴァラエティーに富む旅行ができた。
歴訪した六ヶ国はそれぞれに特徴があり、その違いが明確に解ってきた。
その内容は、いずれ述べることにする。

交通手段も多様であった。
・初めてヨーロッパの都市間で飛行機による移動をした(オスロ〜ホニングスヴォグ)。
・11時間半に及ぶ長距離バス移動を経験した(ホニングスヴォグ〜ロヴァニエミ)。
・11時間の船旅をした(トゥルクー〜ストックホルム)

(4) 音楽にも恵まれた。
正式のコンサートは、プラハでの弦楽四重奏のみだった。

しかし、グロッセン・ブローデでは、水兵さん20人ほどのコーラス(無料)を聞いた。85歳のテノールがすごかった(私はまだヒョッコだ)。

ストリート・ミュージッシャンに凄いのがいた。
・オスロのバイオリン一丁のアイネ・クライネ・ナハトムジーク。
・ヘルシンキのチェロによるハイドンの交響曲。
・ヘルシンキのインディアン縦笛によるエレチョクロ(ジャズ・ナンバーのKiss of Fire)など。彼のCDを買った。
・ドレスデンのクラシック音楽トリオ。彼らのCDを買った。

(5) 外国語を喋る自信が一層増し、新しい言葉を習得したくなった。
英語では、思ったことの7割が表現できるようになった。英語なら30分や1時間のお喋りをしても疲れない(そんなに長く日本語で喋ることなんて滅多に無いのに)。
ドイツ語も話す機会が多く、相当上達した、と思う。
イタリアン・レストランに入った時は、英語は一言も喋らずに、イタリア語だけで済ませられるようになった。
フランス語とスペイン語は話す機会が少なかったが、それ相当の進歩はあった。

これらを踏まえて、私の出した結論。
第六のヨーロッパ語として、チェコ語を覚えることにした
そして、再来年(2011年)はプラハとミュンヘンで各一ヶ月間暮らすことを決意した。

2009年08月17日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

2009年の旅を総括する (1)

帰ってきてから言うのは少々おかしいが、今年はよくぞ旅に出掛けられたものだとつくづく思っている。


「北欧とプラハを旅する」という構想は前々から持っていた。
今年、それを実行しようとしたのは、以下の理由からだ。

第一に、「来年からは動き回るのは止めて、二都市滞在型の旅にしよう」と考えているからだ。
私にとって未知の「北欧とプラハ」は、最後の「駆け巡る旅」として相応しいものであった。

第二に、ドイツ北部に行く必然性があった。
高校同窓生の中に、ドイツ北部に住む女性KKWさんがいる。
2年前に彼女が来日した時に、「2年間生き永らえていたなら、その内にドイツへ行くから」と言っていた。
その約束を果たす期限が今年だ。
陸路で北欧からプラハへ行くにはドイツを通るのが最も一般的であり、恰好の旅行コースである。

第三に、今年からチェコがユーレイル・パスの対象国になり、チェコ国内の旅行が便利になった。

ということで、今年の旅行の手配は1月半ばに終えてしまった。


しかしながら、出発の1月半くらい前になって思わぬ障害が発生した。

家内が5月18日にガンの手術を受けることになった。
例年なら私の旅行は5月下旬〜6月下旬なので、家内の退院と私の出発が同時期になってしまう。
ところが、今年は「北欧」ということで、例年より1ヶ月遅く行くことにしていた。
そこで、出発ぎりぎりまで様子を見ることにした。

もう一つの障害は、新型インフルエンザの世界的流行が懸念されたことだ。

しかし、幸いなことに、両者共私の旅行を断念させるには至らず、出発できることに相成った。


私の旅行コースは、本ブログに断片的に書いている。
しかし、ブログからだけでは、全旅行コースを的確に判断するのは困難だと思われる。
そこで、宿泊した街の名と宿泊日数を書いておこう。
なお、括弧内は国名で、
N : ノルウェー、 F : フィンランド、 S : スウェーデン、 D : デンマーク、   G : ドイツ、 C : チェコ  を表す。

宿泊地
オスロ(N) 2泊、 ベルゲン(N) 1泊、 オスロ 再び2泊、 
ホニングスヴォグ(N) 1泊、 車中 1泊 、 ロヴァニエミ(F) 1泊、 
ヘルシンキ(F) 3泊、 トゥルクー(F) 1泊、 ストックホルム(S) 2泊、     
テルベリー(S) 2泊、 コペンハーゲン(D) 2泊、 オルフース(D) 2泊、    
グロッセンボーデ(G) 2泊、 ベルリン(G) 2泊、 ドレスデン(G) 1泊、    
プラハ(C) 2泊、 チェスキー・クルムロフ(C) 1泊、 プラハ 再び2泊。

2009年08月09日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:1

プラハの6日目、帰国

7月30日午後3時半、帰宅。

いろんなことがあったので、とても「無事帰宅」とはいえない。
といって「ほうほうの体(てい)での帰宅」という訳でもない。
良くも悪くも、適当にハプニングがあったということ。
それらを乗り切り、余裕綽々での帰還とあいなつた。


プラハでの最終日は忙しかった。

6時半からの朝食を早々に済ませ、路面電車でプラハ城とヴルタヴァ川(かつてはモルダウ川と呼ばれていた)を見物に行った。

実は、プラハ滞在中は毎日数十分〜数時間掛けて別の街2ヶ所へ行っていた。
チェコの電車・バスは乗るのが大変難しく、乗り損なうこともしばしば。
次は2時間半後というのが通例。
ホテルへの帰還は午後11時過ぎばかり。
市内見物は、2日目の午前に2時間コースの観光バスに乗ったきり。
プラハ城もヴルタヴァ川もろくに見ていないことに気付いた。
そこで、急遽、見物に行った次第。

城は中へ入るより、外観を眺めている方が楽しい。
川に架かる橋は、有名なカレル橋とその上(かみ)と下(しも)の橋に行き、写真を撮りまくる。

ホテル帰還は10時半過ぎ。
早速チェック・アウト。空港に向かう。
13時5分プラハ空港発。パリCDG空港に着く。
例によって、パリに着けば日本も同然。

パリからの便では、ドイツ人かと思っていたキャビン・アテンダントはイタリア人。
勿論、私のイタリア語会話上達のために犠牲者となってもらった。


今年の旅は、多分、過去13回のヨーロッパ旅行で最も充実した旅だと思う。

しかし、これからは「旅のスタイル」を変える積りだ。
差し詰め来年は、パリとフィレンツェ(付近)に各一ヶ月間アパートを借りて住もうと思っている。

2009年07月30日 チェコ トラックバック:0 コメント:6

プラハの3日目

ドレスデンでカルチャー・ショックを受けたが、ブラはへ来てからはもう物が言えなくなった。

ショック・ショック・ショックである。
他の観光地とは「桁」が違う。

戦争で被害を受けなかったとはいえ、こんなに広い範囲に歴史的建造物が残っているとは...

慌てて変なことを言っては、プラハの良さをぶち壊すかもしれない。

帰国後に写真付きでゆっくり紹介しよう。

今から、中世の町2つを見に行く。
今夜はその内の一つ、チェスキー・クルムロフに泊まる。

明日は、再びプラハ見物。
明後日は、また別の中世の街2つを見に行こう。
その次の日は、いよいよ帰国の途につく。

後になるほど元気が出て、ますます興味が湧いてきた。

このまま永住したい気分。

2009年07月26日 チェコ トラックバック:0 コメント:2

ドレスデンの初日

ヒェ〜!! びっくりした、ビックラこいた、オッタマげた、カルチャー・ショック。

ドレスデンの街は、一名「エルベのフィレンツェ」と呼ばれているそうだ。
私が好きな「本物のフィレンツェ」(偽者のフィレンツェはないと思うが)とどこまで競争できるか見てやろうと街に出た。
確かに雰囲気はよく似ている。
頭がマルまっちい「ドゥオーモ型」の建物が多いからだろう。
しかも、歩いていると、それが次から次へと現れてくる。

「本物のフィレンツェ」(偽者のフィレンツェはないといってるのに。分からない人だネ)は道幅が狭く、目の前の建物しか見えない。
その点、ドレスデンは道幅が広く、見晴らしがよく、ゆったりしている。
路面電車だって走っている。
もしフィレンツェに「歴史の重み」が無かったなら、私はフィレンツェと呼ばずに、「アルノのドレスデン」と呼んでいたろうに。

さらに、ここで素晴らしい「ストリート・ミュージッシャン」に出会った。
ベラルーシ出身のトリオで、ヴァイオリン・クラリネット・アァゴットの演奏が抜群だった。
彼らのCDを買ったので、帰国後にゆっくり聴くことにしよう。

2009年07月26日 ドイツ トラックバック:0 コメント:0

ベルリンの初日

今のベルリンで、確実な移動手段は「バス」か「徒歩」で、「Sバーン(郊外電車)」や「Uバーン(地下鉄)」は使わない方がよい。もちろん、お金がある人はタクシーでどうぞ。

話が「オルフースの2日目」から跳ぶが、私は今ベルリンにいる。
今回の旅では6ヶ国・15都市に宿泊するが、ベルリンは唯一来たことがある街だ。
ちなみに、昨年の旅行では、4ヶ国12都市に宿泊したが、初めての都市は4ヶ所に過ぎなかった。

その勝手知ったるベルリンは市内交通の大改修中で、時間替り・場所替りで交通がストップする。

ベルリン中央駅からホテルまで30分で行けるはずだったのが、1時間半かかった。
この顛末を書いていると長くなるので、帰国後に。

ベルリンの前は、「グロッセン・ブローデ」という常駐人家10戸くらいの小さな村に2泊した。
高校時代の同窓生(女性)が住んでいるからだ。
これも、報告は帰国後に。


ベルリン2泊後にドレスデンで1泊、チェコで5泊する。
その後、イヤイヤながら日本に帰る。

2009年07月23日 ドイツ トラックバック:0 コメント:0

オルフースの2日目

私のブログを読んで下さっている皆さん!!

書込みが「ロヴァニエミの2日目」で止まっているのは、私がサボっているのではなく、ましてや病気になったのでもない。
インターネット伝送速度が低い状態が続いているからダ。
写真を張り付けた記事を送ろうとすると、「エラー」表示が出る。
せっかく書いた名(迷?)文が、一瞬の内に蒸発してしまう。
何度苦汁を飲まされたことか。
涙がチョチョ切れるとは、このことか。

そうではなかった。
この「一日分」を完成するだけでも、10回くらいの蒸発を味わい、延べ24時間かかっている。
ほとんど文が書けない状態なのだ。
ブログが進まないのに苛立っている。
とりあえず、これまでの遅れ(記述の空白)を取り戻すために写真もなく、詳しい描写もない「ダイジェスト版」を書こうと思う。
写真の添付や詳しい記述は帰国後に行うことにしよう。


私は今、コペンハーゲンでの2日間の滞在を終え、オルフース(デンマーク)にいる。

日本のガイドブックには「(Arhus) オーフス」と書いてあったので、その通り発音したら全然通じない。やはり、軽い「r」音が必要だ。
カタカナ表記では、「オルフース」が一番近いと思われる。

どんどん日が経って、明日は北欧にお別れしてドイツに入る。

2009年07月20日 デンマーク トラックバック:0 コメント:2

ロヴァニエミの2日目

ロヴァニエミ


ロヴァニエミの北緯は66,3度で、ちょうど「北極線」の上にある。
(アラスカのアンカレッジもほぼ同緯度である。)
ということは、ここでは夏至の日の一日だけが白夜となる。
さらに北へ行けば、白夜の日数が多くなる。

ロヴァニエミはまた、サンタクロースの発祥地として知られており、サンタクロース村があるそうな。
私は興味がないので、アルクティクム即ち民族博物館へと出掛けた。

その前に、北欧(スカンジナビア半島)はなぜ3つの国(ノルウェー、フィンランド、スウェーデン)に分かれているのだろう。
出掛ける前には、「偶然の産物ではないの? 三つ巴とか鼎立という言葉がある位だから。」と軽く考えていた。
ところが、ノルウェーとフィンランドの二ヶ国に行っただけで、その考えは間違いだと気付いた。

言葉だけでも、それは解る。
ノルウェー語は、英語やドイツ語そっくりといってもよく、新聞はほとんど意味が理解できる。
ところが、フィンランドごときたら、単語一つすら解らない。
ところどころにフランス語やロシア語に似た単語が見付かるが、同じ意味なのかどうかを確かめる術もない。

民族的にいってもそうだ。
ノルウェー人は、我々がいう「西洋人、白人」で、イギリス人・フランス人・ドイツ人との見分けはつかない。
これに対し、フィンランド人は、白人というよりむしろアジア系の民族に近い風貌である。

アルクティクムへ行って、それがはっきり分った。
フィンランド人の先祖は、フィンランド湾南部からやってきた「スオミ族」である。
それが先住民族のサーミ族を追い出しつつ、混血していった。
サーミ族は、日本で言う「アイヌ族」のような格好で、今も少数民族として残っている。
ずっと北の方ではイヌイットの血も混ざっている。

ここでイヌイットとは、昔はエスキモーと呼ばれた民族である。
エスキモーは「魚を食(くら)う奴」という差別語なので使ってはいけない。
ついでに、流浪の民「ジプシー」も差別語である。今は「ロマ」という。

海洋民族は、一旦海流に乗れば、我々が想像できない位遠くまで行き着くことができる。
これを実験的に証明したのはヘイエダールで、コン・チキ号の航海で成し遂げた。
ヘイエダールはノルウェー人で、オスロにコン・チキ博物館がある。
行きたかったが、「憎っくきノルウェー国鉄野郎」のために行けなかった。
行っていれば、民族間の交流に関するもっと深い理解が得られたろうに。

このようなことを考えつつ、アルクティクムで過ごしていたら、電車の時間にぎりぎりとなった。
ロヴァニエミ教会へ行きたかったので、ホテルでタクシーを呼んでもらった。
教会の前を通って駅までと言ったら、少し時間があるから中へ入って来いと運チャンが言う。
10分間ほど見学して、ヘルシンキ行きの電車に乗った。

写真 : ロヴァニエミ教会の外観
    写真をクリックすると、鮮明になります。


2009年07月15日 フィンランド トラックバック:0 コメント:0

ロヴァニエミの初日

昨日と同じく、ホテルに帰ったのは午前1時過ぎ。
既にチェック・アウトしているので、ロビーでインターネットをしながらバスを約4時間待つ。
フロントのオネーさんも退屈そうなので、話をする。

ところで、昼間にフロントにいるのはおばさん(きっと、偉い人だと思われる)や若くてきれい目の女性。
ところが、夜番は若いが、かなりのブス。しかも、頭が良さそうとは思えない。
ヤッパリ差別を受けてるんだなと思う。

でも、こんなことをノルウェー語か英語かに翻訳してホテルに投書しちゃー駄目だよ。

で、私は「何時から英語を習っているの?小学校から?」と聞いた。
しかし、彼女は「小学校」という英語を知らなかった。
でも、私の質問の意味はチャンと分かっていて、「10歳の時から」と答えた。
小学校の4年生位から習ってるんだね。
あの「オスロの観光船ガイド」女性に限らず、働く北欧人で「英語の下手な人」を探す方が難しいと思う。英語が話せることが、就職の絶対条件なのであろう。

ふと思った。
イギリス人やアメリカ人と話をすると分かりづらい事が多い。
しかし、北欧の人の話は日本語で聞くのと変わりがないほどスッと耳に入ってくる。
だから、私はエリザベス女王とオバマ大統領に直訴したい。
「貴方たちイギリス人やアメリカ人は、北欧の人から英語の再教育を受けなさい」と。


ところで、今は白夜だから、外は明るいまま。
なぜ白夜になるのか?
分からない人に、「地球の公転軌道面と自転軸とが、直角から23.5度傾いているため」と説明したなら、よけい混乱するであろう。

一度、地球儀を置いて部屋を薄暗くし、電灯を太陽に模して横から照らしてみるがよい。
地球をクルクル回せぱ、いつも明るい場所(北極または南極付近)が見付かるであろう。
そこでは白夜になっているのだ。
今ではレーザ・ポインタなるものが使えるので、より一層明確に分かるであろう。


さて、さて、やっと本題に入ろう。

午前5時10分に出発したバスは、しばらく(といっても、3時間位)海岸に沿って走り、やがて内陸部に入る。
ラップランドだ。
起伏がなく、変化に乏しい風景の中をひた走る。
ヴィデオを回しても、同じような絵ばかり。

でも、生えている植物が変化していくのは、ハッキリ分かる。
最初はツンドラ。苔だけしか生えていない。
少し走ると、背の低い草が見えてくる。
さらには、低い灌木、細くて低い白樺、やがて松。
段々幹も枝も太くなり、高さも増す。

イナリという、湖があるラップランドの中央部付近に着く。
福島の女性はここで降りた。

もう、白樺と松が混在する立派な林になってきた。
でも、やはりどっしりと大地に根を生やしているのは、松だね。

松に囲まれた集落が見えた。

すると、ある映画を思い出した。
ソ連映画の「誓いの休暇」だ。

荒筋はこうだ。

ひょんなことから手柄をたてた少年兵が特別休暇を与えられて、母が待つ故郷に帰省する。
途中で知り合った女の子のために時間を使ってしまい、故郷に着いた時にはもう軍隊に戻らねばならない時間になっていた。
母との一瞬の再開の後に帰っていった彼は、二度と母の元へ帰ることはなかった。

ソ連映画としては異色の「ヒューマン・タッチ」の手法で戦争の愚かさを切々と説いている。
そして、この故郷の村の名は「松の木の村」を意味し、ソ連のいたるところにあり、ソ連人なら懐かしくてしようがない名前だったのだ。

という風なことを考えていると11時間半はアッという間に過ぎ、ラップランド南端の街「ロヴァニエミ」に到着とあいなったのである。

この映画の冒頭部を見たい人は
http://www.youtube.com/watch?v=-3jMDFG-rVk
にアクセスして下さい。
ラストシーンと同じ「母の悲しげな顔」も映ります。

ただし、事前に
YouTubeへの会員登録 と Adobe - Flash Player のダウンロード
(共に無料) が必要です。



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2009年07月12日 フィンランド トラックバック:0 コメント:2

ノールカップの2日目

ノールカップ-12

ノールカップ-13

午前0時15分ノールカップ発のバスに乗り、ホニングスヴォグのホテルに帰還したのが1時過ぎ。
何かおかしい? 誤解している誰かさん!!

今回の旅で初めて5時間も眠る。
昨日までの平均睡眠時間は3時間!!! ノルウェー国鉄野郎メ(怒)。

眠って元気が出てきたが、外はあいにくの雨。

食欲も出てきた。昼食にホットドッグを食べる。美味しかった。
トナカイ肉のソーセージなんて無いからネ(笑)。

夕食を待てず、再びホットドッグを食べる。
その代り、夕食はスープとサラダとコーヒーのみ。
それでも、5千円!!! <怒>ではなくて、<呆>(あきれ)。

昨日と同じく、21時30分発のバスでノールカップに向かう。
道中、昨日に比べると霧が少ない。
ノールカップの先端まで行くと、崖も、海も見える。
二回目来てよかった(喜)。

実は、昨日、こんな感想を書こうとしていた。
「霧に包まれたヨーロッパ最北の地。
ほとんど何も見えないからこそ、崖はどう落ち込んでいるのか、海にはどういう波が立っているのか、如何ようにも想像できる。
この神秘の世界に迷い込んだなら、もう一度来ようという気持ちが掻きたてられる。」

しかし、景色が見えてしまった今では、こう書き換えよう。
「ソリャ、マァ、景色チュウもんは見えてナンボやないか?
全然見えへんかったら、一文の値打ちも無いのとチャウ?
今日、見えたから許したるけど、見えへんかったら二度と来んわ。」

左様、私は今でこそ名古屋に住んでいるが、大阪生まれの大阪育ちなのである。
上の文章、関西弁に馴染みの無い人には、英語で書かれているより難解かもしれないネ

昨日の大迫力ヴィデオをもう一度見て、またまた大満足。
浜松と福島から来たという若い日本人女性と知り合い、私のブログをちゃっかり宣伝する。

それからは、午前0時15分発のバスに乗り、17時30分にフィンランドのロヴァニエミに着く。
途中に大休憩があるが、延べ16時間15分の大移動(時差1時間あり)。
ラップランドを駆け抜ける。

写真(上) ノールカップ・ホール。
      右下に小さく「地球のモニュメント」が見える。
   (下) ようやく見えた崖と海。

2009年07月09日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:1

ノールカップの初日(3)

ノールカップ-1

ノールカップ-2

ホニングスヴォグのホテルは、今回の旅行で最も高いホテルだ。
でも、それだけのことはある。
インターネットはつなぎ放題。フロントの対応もテキパキ。愛想も良い。

2時間ほど昼寝をして元気が出た。

夕飯はホテルのレストランで豪勢に、と言いたいところだが、そんなに食べられるはずがない。
スープ、魚料理とデザートのタルト、それにコーヒー。
これだけで、7千円強!!
さすがは、高級(高価?)ホテル。

午後9時半発のバスでノールカップへ行く。
路線バスは一日一本。
ほとんどの人がツアーバスで来ている。だから、このバスでノールカップまで行ったのは2人だけ。
今日は曇っており、霧がひどい。
ノールカップ到着、10時半少し前。
北緯71度10分21秒。ヨーロッパ大陸の最北端。
ただし、ユーラシア大陸最北端はロシアにある。シベリアだ。

ノールカップには、大きくて立派な建物がある。ノールカップ・ホールという。
建物を突き抜けて外に出る。
岬の先端には、地球を象ったモニュメント(記念碑)がある。
観光客は次々に台座部に上がっていき、記念写真のポーズを作る。
にわかカメラマンがこれを写す。
と書けば、何だか平穏そうに聞こえるけど、実は大変。
小雨が降り、風が強い。推定気温5度以下。体感温度0度。
冬装束をし、手袋をはめ、傘をさす。
傘が吹き飛ばされそうになりながら、もう片方の手にはカメラを構える。
ここでヴィデオと写真を撮っておかないと旅行の元が取れない、と奮戦する。
終わって建物の中に入れば、そこは天国。
地下に10人ほどしか座れない、小さなチャペルがある。
一応、十字を切っておく。ご利益あるかな?

シアターがあり、そこではこの島「マーゲロイ島」の記録ヴィデオを見せてくれる。
シアターに入って、オッタマゲた。
スクリーンは、縦7m、幅10m位のものが3面、三副対(開いたコの字型)状に設置してある。
ここへ鮮明な画像が映し出され、画面に引き込まれそうな感じで大迫力。
当然、大満足。
もう一度見たかったが、バスの時間が迫った。
明日、もう一度見に来ることにしよう。

ホテル帰着、午前1時過ぎ。

写真(上) ノールカップの象徴 地球のモニュメント。
   (下) 北緯71度10分21秒を示す標識。


[暫定] プログラミング不完全のため、最上部のタイトルをクリックして下さい。上の写真のモザイクがとれていきます。

2009年07月07日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:2

ノールカップの初日(2)

ホニングスヴォグ

ホニングスヴォグは、人口3500人の小さな漁港がある村である。

私がホテルに着いた時は小雨が降り、いかにもショボクレタ村という雰囲気である。
新田次郎著の「アラスカ物語」にでてくるショボクレ村を思い起こした。
私は、アラスカはアンカレッジ空港しか知らないけれど、アラスカの貧村はきっとこんな感じだと想像している。

貧しいしい村に生まれ、貧しい生活を送り、貧しく死んでいく。
それを何代にもわたり繰り返す。
この「やりきれない」人生が、彼らに与えられた宿命なのだ。

というのは、感傷的過ぎる。
天気が悪いから、ついこんなことを考えてしまう。
天気が良ければ、もっと肯定的に書くはずなんだけど....

街を歩く。といっても、商店が並んでいるのは50mくらい。
夕飯には早すぎるが、お腹が空いたので小さなレストランに入る。
メニューに「Bagett with Taco」というのがあったので、注文した。
バゲットはフランス語と綴りは違うが、やはりバゲットだ。
問題はTaco。肉だけど、牛肉ではない。最初は美味しいと思った。しかし、連中の一食分は私の二食分に相当する。お腹がふくれてくるにつれ、だんだん鼻についてきた。全部は食べきれず、1/4を残した。
で、私の結論。これはどうもトナカイの肉のようだ。トナカイはこの辺りにいくらでもいて、車がその横断待ちをするほどだから。

ともかく、トナカイの肉は最初で最後にしよう。

写真は、小雨に煙るホニングスヴォグの港

2009年07月06日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:0

ノールカップの初日(1)

この記事のタイトルは、正確には、「ホニングスヴォグ(ホテルの所在地)の初日」とすべきである。しかし、覚えにくいだろうから、ノールカップ(北岬)の名を使った。

さて、徹夜明けの眠い目を擦りながら、オスロのホテルをチェック・アウトした。

オスロ空港から、先ず、トロムソまで飛ぶ。これは、大手のスカンジナビア航空。結構美味しい朝食が出た。
トロムソで小規模航空会社の便に乗り換える。プロペラ機だ。以前、プロペラ機に乗ったのが何時だったか思い出せない。
ジェット機ばかり乗っていると、プロペラ機なんて本当に飛ぶのかしらと不安になる。でも、ジェット機が無い時代は皆プロペラ機だったよネ。
私の不安を他所に(不安がる方が間違っているのだけど)、無事飛び上がった。

飲み物は?と聞くのでオレンジジュースを注文したら、支払いを要求された。マァ、小規模会社なら、これ位細かくやらないと経営が成り立たないのだろうと哀れを感じる。

ハマーフェルトという街に途中降機する。30人程いた客の内、残ったのは10人くらい。

ホニングスヴォグに到着。あいにくの小雨。
オスロは晴れていたが、トロムソでは曇り。ハマーフェルトから降り出した。

ホニングスヴォグ空港から街までバスがない。タクシーを電話で呼ばなきゃいけない。ところが、ノルウェーには公衆電話はまず無い。皆が携帯電話を持ってるからだ。

タクシーを呼んだ人がいたので、相乗りさせてもらおうとした。しかし、私が行く方向とは違う。
すると、30歳代と思しき女性が一緒に乗っていいと言ってくれた。
勿論、喜んで乗せてもらう。

私の方が先に降りるので、支払おうとしたら、払わなくていいと言う。
彼女が勤めている会社が出してくれるそうだ。
ムッ、社用族だ。
日本でもノルウェーでも、社用族は気ままにタクシーを使っているネ。自分の懐が痛まないもんだから。

こんな恩恵を受けたのだから、私にできることは唯一つ。
私がタクシー代を払わなかったということで、彼女の会社が潰れるような破目にならないよう祈ることである。

12時半頃、ホテルに到着。

2009年07月05日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:1

オスロの5日目(1)

何をやってンダ。いい加減にしろ!!!!
エッ?何故怒っているのかって??

ノルウェーの国鉄ですヨ。 こ く て つ。

一昨日の夜は、2時間遅れ。
ホテルへ入ったのが夜中の1時少し前。
だから、正確には、昨日の夜ということになる。

マア、正確さなんてどうでもいい。
「昨日の夜}、エエ面倒くさい、正確には「今朝」になるが、ナント3時間余りの遅れ。
ホテルには夜中の2時到着。

はからずも、2日とも「午前様」。

今日は午前8時発の飛行機で「ノールカップ(Nordkapp:北岬の意)」へ行くための街「ホニングスヴォグ」へ飛ぶ。

今、ちょうど4時。
6時にホテルをチェックアウトするので、結局寝る時間はゼロ!!

列車は遅れる、物価は高い。フィヨルドの景色も中途半端。アルプスの足元に及びもつかない。
北欧(まだノルウェーだけだげど)は、今回一回でもうたくさん。
というのが現在の感想。

きれいな写真は一杯あるけど、「怒りの文」に使っては、写真が可哀そう。
だから、今回は写真貼り付けは無し。

2009年07月04日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:0

オスロの4日目

快調、快調!!
お腹の調子がおかしいことなど、とっくの昔に忘れてしまった。

ともかく、忙しい。
行きたい所もやりたいことも多すぎて、時間が足りない。
睡眠時間を極く短かくしているけど、それでもブログを書いてる時間がない。

ブログの書込みは殆どできないけれど、とりあえず、元気よくやっていることを報告しておこう。

つまらない文書だけど、これだけ書くのが精一杯。
もう出かけなくっちゃ。

2009年07月03日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:1

オスロの2日目(2)

オスロ港

今日は先ず中央駅まで行き、ユーレイル・パスが使える状態にした(これを、「ヴァリデイトする」という)。

昨夜、中央駅に降り立ったときに磯の香りがしていたが、それは当然だった。200m暗い南に行けば、もうそこは港なのだ。

付近をブラブラ歩いていると、観光バスを見かけた。中央駅に戻れば乗れるだろうと思っていた。しかし、観光バスの溜まり場らしきものは見付からない。タクシーの運転手に聞いたら、市庁舎の付近で乗れると教えてくれた。徒歩10分とのことで、当然歩く。
カール・ヨハネス通りという歩行者専用の目抜き通りを通って、市庁舎まで行く。

途中で、大道音楽家がバイオリンで「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を演奏していた。かなり、迫力があって、聞き惚れていた。バイオリン・ケースにコインを放り込んでやったが、後で考えると、通貨(ノルウェー・クローネ)の換算ミスで随分多くやってしまっていた。

観光バスで街を一周。地理が飲み込めたので、後は市内バスで行きたい所へ行ける。

海を見たかったので、観光船に乗る。2時間のクルージング。
この観光船では、若い女性が英語とノールウェー語でガイドしてくれた。
その英語が非常によく分かる英語だった。
そこで、降りる際に、「英語がうまいね。全部聞き取れたよ。」と褒めておいた。
実はこの時、チップを渡そうかと思った。しかし、それがいいことなのか、失礼に当たるのか判断できず、結局は渡さずじまいだった。
こんな時、どうすればいいんでしょうか。知っている人、教えて!!

今日は、ともかく暑い。少し歩いても汗ビショ。水をガバガバ飲んで、お腹の調子が狂ってしまった。ヤレヤレ。
しかし、こんなことではへこたれないよ。

写真は、オスロの港風景。

2009年07月01日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:0

オスロの2日目 (1)

昨夜10時過ぎにホテルへ到着。

今回の旅行は上々の滑り出し。

名古屋-パリ間の飛行機では、隣の席は30歳代と思われるフランス人男性。
早速、フランス語会話の教材(?)として使わせてもらう。

キャビン・アテンダントの2人と仲良くなった。共にドイツ語で喋っていたが、その内の一人はチェコの出身者。

シャルル・ドゴール空港で次の便を待っていると、ベンチの隣に座っていた若い女性がコンピュータを使い出した。そこでインターネットが使えるかどうかを聞いたのが端緒で、さらに話をしていたら、彼女はチェコ人だった。

さらに、オスロ行きの搭乗口へ行く途中で、先ほどのキャビン・アテンダントとバッタリ会った。彼女らはこれからフランクフルトの寮に帰るところだと言う。ベンチに座って、約30間の長話。彼女らの搭乗時間になったので、サヨナラした。

オスロ到着は予定通りの午後9時10分。曇っていたこともあって、予想よりは空が暗かった。でも、太陽は地平線より大分上。今の日本なら、5時半位の感じかな?

オスロ中央駅からホテルまで迷わずに歩き、5分で到着。インターネットは有料だった。

それにしても、ヨーロッパは今、猛烈に暑くて湿気も多い。パリは28度とか。オスロは、数値こそ知らないけれど、体感的にはパリとほぼ同じ。冬装束を持ってきたけど、役に立つのかな?

2009年06月30日 ノルウェー トラックバック:0 コメント:0

2009年の旅・発進

現在、2009年6月29日午前8時過ぎ。中部国際空港にいる。
既に飛行機のチェック・インを済ませ、ラウンジでくつろぎながら、この文を書いている。

本日は、先ずパリのシャルル・ドゴール空港に着き、3時間20分待ちでオスロ空港(ノルウェー)まで飛ぶ。
オスロ到着 午後9時10分。夏至直後だから、ほとんど昼間と同じ明るさだと想像している。

オスロは北緯60度。日本付近だとカムチャッカ半島の付根辺り。これを知って、北欧はやはり「北」にあるんだという、当り前のことを実感した次第。

スーツケースには夏着ばかりを入れていたが、昨晩遅く、「合」や「冬」の衣類を補充した。最北は北緯71度位(立派な北極圏ダヨ)まで行くんだからね。

ともかく、風邪をひかないよう気をつけよう。
では、行ってきま〜す。

2009年06月29日 プロローグ トラックバック:0 コメント:1

旅の思い出 - ウィーン(10) -

中央墓地

映画には3回登場する。

冒頭では「ハリーの埋葬と称する」葬儀が行われていた。
ここで、ホリーはアンナを見かける。

中程では、ハリーの墓が掘り起こされた。
その結果、埋葬されていたのはハリーではなく、ハリーの手下の遺体であることが判明する。

ラスト・シーン。
約1分半、音楽の演奏だけで、せりふは一切無しのロングカット。余情たっぷりに描かれている。

この墓地はべらぼうに広い。面積240haというから、東京ドーム約50個分に相当する。したがって、入場する門の数もハンパではない。30個近くあったと覚えている。

この墓地へ行くには、リング(環状線の路面電車)のシュヴァルツベルゲンプラッツからほぼ南に向かう別の路面電車に乗る。
門の数が多いので、降りる停留所を間違えると大変だ。次の停留所を示す掲示板をシッカリ眺めて、目指す『墓地第二門』で降りる。

門をくぐって墓地内に入る。「面積の広さ」、「植栽の多さ」と「整備の良さ」が目に飛び込んでくる。これで、もし墓石が無ければ、広大な公園という感じ。日本の古式な墓の陰湿さは全くない。

さて、映画のラストシーンの場所は?と眼を凝らしながら歩き回る。
似たような風景が多いので、どこが本当にラストシーンの場所か定かではない。でも、これで満足。映画の雰囲気が味わえたのだから。

この映画のラストシーンを見たい人は
http://www.youtube.com/watch?v=Es3gBldyR4k
にアクセスして下さい。

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2009年06月25日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(9) -

地下水道

映画に2回登場。

一回目。ホリーがウィーンで初めてハリーを見かけた時、突然その姿が消える。地下「下」水道の出入り口に設置された「八角形の広告塔」の中へ逃げ込んだからだ。ウィーンへ来て間もないホリーには、広告塔にそんなカラクリがあるとは露知らなかった。

二回目。ハリーがホリーにおびき出されて、警察軍に追われる。その時逃げ込んだのが、この地下「下」水道。迷路のようなトンネルの中を、勝手知ったハリーは逃げ回る。しかし、警察軍はすべての出入り口を警護している。逃げ切れなかったハリーは遂にここで命を落とす。迫力のクライマックス・シーンが撮影された場所である。


この地下「下」水道には、当然、勝手には入れない。入りたければ、「第三の男ツアー」への参加が必須となる。といっても、英語ガイドつきのツアーは隔日にしかやっていない。
私の場合は、予約の翌日に実現した。

ブルク公園の一画にある入口から階段を降りて地下に潜る。入口の形は、映画のとおり、三角形の鉄板を組み合わせたものである。
そのツアーの様子は「ウィーンの三日目(その1)」に書いてあるので参照して欲しい。


大都会を成立させる重要な条件の一つに、下水道の整備がある。
パリでも、その内部が観光コースになる程、地下「下」水道が発達している。
下水の処理には、近代科学の粋を集めた工夫がなされている。
しかし、下水はやはり下水だ。臭を完全に無くす訳にはいかない。
私の経験で言うと、1993年12月に冬のパリでセーヌ川の観光船に乗っていた。その時、セーヌの水が臭うのに気付いた。もっとも、最近は大分良くなっているようである。
また、ヴェネツィアには二度行っているが、やはり運河の水が臭う。日本ではヴェネツィアを絶賛する人が多いが、物価が高いこともあって、私は好きになれない。一番酷い表現を使うと、「ヴェネツィアはドブ川の上に浮ぶ街である」ということになる。

ひょっとしたら私は「嗅覚過敏」かもしれない。だから、臭いのきつい地下「下」水道ツアーは、残念ながら今回の一回でもう十分である、との感が強い。

この映画の「地下水道」のシーンを見たい人は
http://www.youtube.com/watch?v=He8kq34pQcc
にアクセスして下さい。

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2009年06月25日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(8) -

映画「第三の男」の舞台三ヶ所の探訪記を紹介しよう。

プラーター公園の大観覧車

映画では、この大観覧車に乗って、ホリーとハリーがウィーンで2度目の会話を交わす。
圧巻は、ハリーがホリーに向かって滔々と「悪の哲学」を語るシーンであろう。

さて、プラーター公園はウィーン北駅の傍(ということは、市のほぼド真ん中)にあり、手軽に行ける{市民の憩い場}となっている。
公園に入るだけなら無料である。大観覧車以外にジェットコースターやミニSLなどの遊具が充実している。

1873年にこの公園を中心にして「万国博覧会」が開催され、大観覧車はその後に建設された。

皆さんの中には「大観覧車なんて珍しくないヨ。ちょっと気の利いた公園のどこにでもあるモン」と言う人もいるであろう。
でも、建設されたのが1897年(明治30年)なんだから、驚きだネ。もう110年近く前にできて、今も動いているんだヨ。

そこで、大観覧車をジックリ観察してみよう。
高さは65m。100m超えのがザラにある現今では、中型機というランクになるだろう。
しかし、キャビンの大きさはソンジョそこらの比ではない。
多くのものが約1.5m角なのに対して、この観覧車はほぼ4m×2,5mのキャビンを持ち、12人乗りである。
内部に座席は無く、眺めたい方向へ自由に移動できる。

15台あるキャビンの中で、一台だけカーテンを施した小奇麗なキャビンを見付けた。
係の人に聞いてみると、内部にテーブルも置いてあるとのことである。
このキャビンは借り切ることができ、結婚式や誕生日パーティーに利用する人もいるトカ。
将に、「市民の要望」に応える営業をしている訳である。

ウィーン万博の17年後(1889年)に、パリ万博の記念碑として「エッフェル塔」が建設された。
エッフェル塔は今でもユニークな建造物として、多くの観光客を集めている。
それに反し、プラーター公園の大観覧車は数ある観覧車の一つに過ぎなくなってしまった。
しかし、観覧車をポピュラーな娯楽物とする先駆者として、その歴史的役割はエッフェル塔に比肩すると私は思う。どうだろう?

この映画の「大観覧車内での会話」を見たい人は
http://www.youtube.com/watch?v=mZg8a0
にアクセスして下さい。

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2009年06月25日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(7) -

ウィーンを舞台とする映画の中で、最も印象に残っているのは「第三の男」である。

この映画を見たことがない人でも、タイトルは知っているだろう。テーマ音楽がポピュラー・ミュージックの超有名曲となっているからだ。

私が再びウィーンを訪れた動機の一つは、この映画の舞台になった場所を訪ねてみたいと思ったからである。

まず、映画の荒筋を紹介しよう。

アメリカの貧乏作家ホリー・マーティンスが旧友ハリー・ライムの招きで、第二次世界大戦直後のウィーンにやってくる。当時、ウィーンは米英仏ソ四ヶ国の進駐軍により共同統治されていた。

ところが、ハリーは交通事故で死んでいて、葬儀が行われている最中であった。ホリーは葬儀で知り合ったイギリス軍のキャロウェイ少佐から、「ハリーは悪質な闇商人の黒幕だ」と聞かされる。怒りを感じたホリーは、親友の無実を証明しようと決意する。ハリーの恋人だった舞台女優のアンナと共に調査を進めると、交通事故を偶然目撃した門衛が見つかる。門衛は「現場では3人の男が死体を運んでいた」と言う。その内の2人は直ぐに身元が分かった。しかし、「第三の男」の正体が不明のまま、門衛は殺されてしまう。

ある夜、アンナのアパートを訪ねたホリーは不審な男に尾行された。闇の中から浮かび上がったその男はハリーであった。ホリーは追いかけるが、ハリーの姿を見失う。

ハリーの隠れ家を突き止めたホリーは、プラーター公園で会う約束をする。この時、ホリーは既に「ハリーが水で薄めたペニシリンで大儲けをする悪徳商人である」証拠を少佐から突きつけられていた。公園の観覧車の中で、ホリーは「ハリーが根っからの悪人になっている」ことを悟る。

病院で不正ペニシリンの後遺症に苦しむ患者を見て、ホリーの正義感は燃え上がる。さらには、偽造旅券行使で窮地にたつアンナを救うという交換条件で、ホリーは「ハリーをおびき出すおとりになること」を少佐に申し出る。地下「下」水道に逃げ込んだハリーは国際警察軍に追い詰められる。傷を負ったハリーは逃げおおせないと観念し、ホリーに自分を撃つよう合図を送る。こうして、ハリーは「本当に」死ぬ。

ハリーの葬儀の後、ホリーは歩いて帰るアンナを中央墓地の並木道で待っていた。二人の心には互いに通い合う感情が芽生えていると思われた。しかし、アンナはホリーに眼もくれずに去ってしまう。

この映画の冒頭部を見たい人は
http://www.youtube.com/watch?v=te9fqm6rUPY
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2008年08月25日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(6) -

「ウィーンの森」という言葉を聞くと、何かしらロマンティックな響きがする。多分、「ウィーンの森の物語」(ヨハン・シュトラウス2世作曲のワルツ)を思い浮かべるからであろう。

ところで、「ウィーンの森」を「ある特定の狭い地域」と考える人がいるかもしれない。とんでもない話である。ウィーンの森は、ウィーン市の3倍もの面積をもつ広大なものなのだ。

私の知るウィーンの森は、カーレンベルクとレオポルツベルクの展望台だけだ。ここは、ウィーン市の北部に位置し、公共交通機関のみで行くことができる利便の地だ。

そんな数少ない経験であるが、ウィーンの森から感じたことがある。それは、樹木がそんなに太くなく、背もあまり高くない。「森」というより「林」に近い印象だった。これは、ウィーンが西欧の中では寒冷の地であり、地味もあまり肥沃ではないからだと考えられる。しかし、こういう場所ばかりかどうかは定かではない。私が行ってないところには、鬱蒼とした森があるのかもしれない。よく知っている人にその真相を教えていただきたい。

ウィーンの森には数々の有名な場所がある。その中でウィーンの南西部にある「マイヤーリンクの館」が特に名を知られている。この地でハプスブルク家の心中事件が起きたのだ。オーストリア皇太子ルドルフが男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとともにピストル自殺を遂げた。このルドルフはエリーザベト皇后(シシー)の息子であり、マリーは17歳の若さだった。

この悲劇には強い関心が向けられ、クロード・アネによって小説化された。その記述を基にして、過去三度にわたり「うたかたの恋(あるいは『晩鐘』)」というタイトルで映画が作られた。さらに、多くのバレー作品も作られている。日本では宝塚歌劇でミュージカルとして演じられている。

最も新しい映画は1969 年のアメリカの作品である。この中でフランス女優のカトリーヌ・ドヌーヴがマリー役を演じている。私はこの映画をNHK・BS-2の「衛星映画劇場」で見た記憶がある。しかし、随分昔のことであり、当時はあまり関心が無かったので筋書きはほとんど憶えていない。しかも、この映画はDVD化されてないので、残念ながら入手が困難である。今度見る機会があれば、歴史的背景などを踏まえながら、内容をしっかり把握しようと思っている。

旅行から帰って、ウィーンに関することを調べれば調べるほど、その魅力が増してくる。

是非もう一度訪ねてみたい街である。

2008年08月23日 ウィーン トラックバック:0 コメント:4

旅の思い出 - ウィーン(5) -

皆さんは「ウィーン」という地名を聞くと何を思い浮かべるだろう?

ウィンナ・ワルツとか、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とか、ウィンナ・コーヒーとかの趣味的なものや、ウィーンの森とか、ドナウ川とかの懐かしい地名があろう。

それ以外に、というより本来的に、政治の地として重要だった。

長年にわたってハプスブルグ王家の、そしてオーストリア帝国の帝都であった。

さらに、ヨーロッパ中の注目を集める会議がシェーンブルン宮殿で執り行われた。1814〜15年のウィーン会議である。

さしもの権勢を振るったナポレオン1 世も、ロシア遠征の敗戦を機に力が弱まり、エルバ島に流される。ナポレオン戦争後を如何に収拾するかを決めるために、イギリス・オーストリア・ロシア・プロイセンなどの列強国がウィーンで会議をもった。しかし、列強間の利害が相反して、重要なことは何も決められなかった。この状況は、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されることになる。そうこうする内に、ナポレオンがエルバ島から脱出して勢力を盛り返す。あわてた列強は、とりあえずの妥協の産物「ウィーン議定書」を締結して対抗する。やがて、ナポレオンはワッテルローの戦いでイギリス・プロイセン連合軍に敗れ、百日天下に終わる。絶海の孤島のセント・ヘレナ島に流されたナポレオンは、その地で生涯を閉じる。

このような、ナポレオン・ボナパルトと列強の関係を頭に置きながら、ウィーンを、そしてシェーンブルン宮殿を見ると、興味が倍増する。

なお、ウィーン会議に関連するものして、ドイツ製のオペレッタ映画「会議は踊る」がある。中々面白いので、いつか紹介したいと思っている。

2008年08月07日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(4) -

ヨーロッパに興味を持ったきっかけは何ですか?

私の西洋に対する興味は、高校時代の「世界史」の授業から始まった。特に、ヨーロッパの中世や近代初頭に関心があった。何となく神秘的であり、何となく淫靡な匂いがしていたからであろう。

前回に紹介したマリア・テレジアは、政治的手腕があり、女傑であり、良妻賢母であった。このためにオーストリア国民に広く愛されている。

オーストリア国民に人気がある、もう一人の女性がいる。ハプスブルグ家の一員となり、シェーンブルン宮殿にも住んでいたエリーザベト皇后(1837-1898)だ。彼女は、マリア・テレジアの4世代後のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の妻で、愛称を「シシィ」という。身長172cm、体重50kg、ウエスト50cmのスタイルの良さに加えて、大変な美貌を誇っていた。

バイエルン王家出身のミュンヘン生まれで、近代的思想の持ち主だった。王家にいながら、王制を批判することもあった。そんな彼女であるから、ハプスブルグ家の古い体質に馴染めなかった。イタリアやハンガリーに旅行に出たり、詩歌作りに精を出したと伝えられている。そんな自由闊達さが人気を呼ぶのであろう。

彼女は、また、悲劇の女(ひと)であった。晩年には、息子のルドルフ皇太子が自殺してしまう。そして、彼女自身もスイス・レマン湖のほとりでイタリアの無政府主義者に殺害される。61歳の生涯だった。

前回紹介したガイド嬢(マリア・テレジアの多産を「女体の酷使」と批判)も、シシィのことを語る時は何か誇らしげで嬉しそうなのが印象的であった。

2008年08月06日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(3) -

:現在のオーストリアは、国土面積が日本の22%に過ぎない小さな国である。しかし、かつてはハプスブルグ家の強大な権力の元に、広大なオーストリア帝国としてヨーロッパを席巻していた。有名なウイリアム・テルの物語は、スイスがハプスブルグ家の支配から独立しようとしていた時の話である。

第一次世界大戦の直前には、オーストリア-ハンガリー帝国が存在した。ドイツ・オランダ・イタリア・スイスなどの領地を失ったハプスブルグ家が、復権を期してハンガリーと手を結んで作った国である。戦前の教育を受けた人は、ハンガリーという言葉を聞くと、この「オーストリア-ハンガリー帝国」を先ず思い浮かべるとのことである。しかし、この帝国は第一次世界大戦の終結時にはもろくも崩壊していた。

このようなハプスブルグ家の栄枯盛衰の内、栄華を物語るものがウィーンにある。世界遺産のシェーンブルン宮殿である。

この宮殿は、1695 年にレオポルト1世が狩猟用の別荘として作ったのを、1750年頃にマリア・テレジア女帝が「夏の離宮」つまり「別荘」として完成させたものである。しかし、別荘といっても、庶民感覚とは2桁以上違う。1400余りの部屋がある4階建ての建物は全長180m。庭園は1.2km×1km。宮廷劇場、見晴台状の建物、さらには動物園まである。ともかく、その豪華さは一見の価値がある。

マリア・テレジアは皇位に就いたことはないが、政治的手腕は大したもので、実質的には女帝であった。彼女は女傑とも称されるが、それは子供が多いことにも起因する。夫のフランツ1世との30年間の結婚生活中に5男11女を授かった。

私がシェーンブルン宮殿を訪れたのは2004年7月で、ツアーに参加して行った。その時のガイドは30歳代後半の女性で、テレジアの多産を「女体の酷使」と何度も憤慨していた。しかし、これは当を得ていない。テレジアの父が世継ぎ不足に悩んでいたので、できるだけたくさんの子供を産むというのが「政策」だったのだ。

そんな女傑のテレジアであったが、死の床についても子供のことが心配であった。特に、第15子で末娘のマリア・アントニーアには心を痛めていた。その娘はフランスのブルボン家に嫁いでいて、フランス名を「マリー・アントワネット」といった。母の案じたとおり、マリーはフランス革命の際に、夫のルイ16世共々断頭台の露と消えてしまう。歴史とは、かくも残酷なものである。

2008年08月05日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(2) -


オーストリアは、西欧諸国の中では最も東に位置する。しかも、首都ウィーンは、東西に細長い国土の東の端にある。ということは、ウィーンの目と鼻の先は東欧ということになる。

ところで、ユーレイル・グローバルパスは西欧と北欧のほとんどの国で使える。しかし、東欧で通用する国は数少ない。その一つがハンガリーである。そこで、2007年7月にフラリとウィーンへ行った時に、ハンガリーの首都ブダペストまで日帰り旅行をしてみた。

ウィーン〜ブダペスト間は、鉄道で約3時間の旅である。東欧に入ったからといって、車窓から見る風景が特別変わる訳ではない。麦畑やとうもろこし畑が平和に続いている。しかし、国境に懸ると、パスポートや持ち物の検査がきっちりとなされた。さすがは「東欧の国」という感じである。

ブダペスト駅に着いて、観光案内所でもらった市内地図を頼りに、ドナウ川へと向った。ハンガリーではユーロ貨幣が通用しないので、両替をしないとバスにも乗れない。でも、両替所を見つけるのが面倒で、ひたすら歩くことにした。

暑い中を駅から西方に歩くこと約30分で、ドナウ川に着いた。橋を渡り、遊歩道がある小高い丘に登り、街を見渡す。ドナウ川はかなり広く、大型の観光船が行き来していた。玉葱形の屋根を持つ由緒ありげな建物や王宮らしきものも見えたが、それが何であるかはどうでもよかった。それらの風景をのんびりと眺めることで満足していた。

再び歩いて、駅に戻った。お腹が減ったが、両替するのが面倒で、持ち合わせの非常食で昼食とした。結局、ハンガリーでは全くお金を使わない「ケチケチ旅行」となってしまった。

ウィーンへ帰る車窓から、30基近くの風力発電用の風車が密集している場所が見えた。東欧の国もエコロジーを重視しだしたことが肌身で感じられた。

2008年08月03日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - ウィーン(1) -

今年の旅では、最初の地としてウィーンを選んだ。
ウィーンには2004年7月に一度行ったことがある。しかし、この時は当初から行く積もりだった訳ではない。イタリアの余りの暑さに閉口して、ヴェネチアからフィレンツェへ行くのを方向転換して、挙げ句の果てに辿り着いたのがウィーンだった。だから、何の予備知識もなく、思い付きでプランを立てた。
この時は、2日目の昼にシェーンブルン宮殿観光のツアーに参加した。このツアーについては、次回に詳しく述べよう。その夜はワルツ・ポルカ(と少しだけのモーツァルト)のコンサートに行った。
3日目は、ハンガリーのブダペストまで日帰り旅行をした。ユーレイル・グローバル・パスを持っていたので、割り増し料金無しで行けたからだ。この時の話も次々回に書くとしよう。

2004年の旅行から帰って、ウィーンでやり残したことがあまりにも多いのに気がついた。ウィーンの森に行っていないし、ドナウ川も見ていない。「第三の男」ツアーがあることは知っていたが、その時には頭の隅にも浮かんでこなかった。こうして、ウィーンには未練タラタラのままで過ごす破目となった。

このような次第で、オーストリア・アルプス(すなわち、チロル地方)へ行く前に、ウィーンを訪れる気になったのである。

2008年08月01日 ウィーン トラックバック:0 コメント:0

旅の思い出 - 航空機 -

私の過去の海外旅行では、ヨーロッパとアメリカ(合衆国)しか行っていない。だから、行ったことがあるのは「欧米かッ?!」とトシに頭を殴られても仕方がないのである(海外に住んでいる人は、この文のどこが面白いか理解できないであろう)。

暇ではないが、この文章を書くために数え上げてみると、15回の欧米旅行で合計61回飛行機に乗っている。思い出に残る飛行を書いてみよう。

1974年6月、初めての海外旅行で使ったのは、アエロ・フロート航空。現在のロシア、当時のソビエト連邦の航空会社。値段が安いのが特徴だが、ダブル・ブッキングが多いので有名だった。だから、たとえチケットを持っていても、自分の座席に座るまで安心できなかった。
行きは成田-モスクワ-パリ、帰りはローマ-モスクワ-成田と無事に飛行した。

二度目の海外旅行は、1975年11月、アメリカのサン・ディエゴ。当時は、アメリカ本土へ行くには、必ずハワイのホノルルで入国し、その後国内便で海を渡った。航空機の飛行距離が短いのと入国手続きの便宜のため、このようなシステムとなっていたのだ。お陰で、往復の各2日間、ハワイで遊ぶことができた。ただし、この頃アメリカに行くにはビザが必要で、神戸のアメリカ領事館までビザを取りに行くのが面倒だった。

三度目の旅行は、アメリカのテキサス州オースチン(1982年7月)。南のテキサスへ行くのに、まず下りたのが北方のシアトル。7月なのに吹雪で2 時間遅れ。乗り継ぎの便が間に合わず、次の便でデンヴァー(コロラド州)へ。さらに乗り継いで、オースチンへ。長い飛行旅だった。

4度目は、まず、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港へ。成田出発が5時間以上遅れた。目的地は、ニュー・ジャージー州(ニューヨーク州のすぐ北の州)のニュー・アーク空港。乗り継ぎの便がないため、ヘリコプターで移動。プロペラ音の喧しいのには閉口した。

5回目はヨーロッパ5ヶ国(1991年9〜12月)。ノーマル料金のエグゼクティヴ・クラス。航空便の変更が自由にできるのはありがたかった。
名古屋-成田-マドリード-ロンドン-ミュンヘン-ジュネーヴ-マルセイーユ-パリ-成田-名古屋、と渡り歩く。

6〜8回目は、すべてパリ。大韓航空利用。

9回目からは、今日に至るまで、エール・フランス航空利用。
1991年と今年を除いて、必ずパリの街で何日かを過ごしている。
使った空港は、トゥルーズ、マルセイーユ、リスボン、チューリヒ、ウィーン、ローマ、フィレンツェ。

6回目以降は航空機に関して順調で、特記することが無い。ご同慶の至り。

2008年07月26日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

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